鹿児島城は、慶長6年(1601)に島津家久が築城を開始した島津氏の居城。背後の城山と麓の城郭を組み合わせた構えで、シラス台地の地形を生かした立地が特徴。現在は御楼門が復元され、水堀や城山から桜島を望む景観が城の魅力を伝える。このページでは鹿児島城の歴史や見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
鹿児島城の歴史・見どころ
鹿児島城(かごしまじょう)は、慶長6年(1601)、島津家久により築城が開始された。別名を鶴丸城と言う。元は背後の城山に上山城があり、これが江戸時代前に麓に向かって城域を伸ばした。そのため江戸時代の史料には「鹿児島城」と記録され、国の史跡登録もその名でされている。「鶴丸城」と呼ばれるようになったのには諸説あり、山を形容し、鶴が羽を広げた形の鶴丸山から転じて鶴丸城と呼ばれるようになったらしい。
鹿児島城の水堀は、大大名の城としては小規模で、幅13m、深さ80cmほどと、石垣の高さは6.6mしかない。背後の城山は高さ108m、5つの曲輪から成る。よくある背後の城山から桜島の眺望は、このうち1つの曲輪からの眺望となる。
鹿児島城背後の城山はシラス台地だ。シラスとは火砕流堆積物。火山灰や軽石や水蒸気が熱と圧力で押し固められたもので、長い年月をかけて雨水などが作用し垂直に侵食、斜面(側面)は急峻な勾配でありながら、上部には平地を豊富に持つ台地が出来上がる。
鹿児島湾は姶良(あいら)カルデラで、桜島はその一角にある。もとは姶良火山があり、この火山の噴火により南九州はシラス台地が多く、城はこうした台地を利用して造られている。
シラス台地は水を含みやすい。泥岩の層の上にシラスが堆積したため、水が通る。いわば鹿児島城背後の城山は貯水槽と言っても良く、鹿児島城は、水には苦労しない城であるらしい。
2020年12月、鹿児島城(別名:鶴丸城)の城山で初めて発掘調査が行われ、江戸期の建物跡や大手口の存在が確認された。本丸の中心的な城門である御楼門が令和2年(2020)3月に復元されている。
鹿児島城の撮影スポット・絶景ポイント
御楼門の水堀は蓮が植えられている。この風景を狙うなら、蓮の開花時期は、6月中旬から7月にかけて。
鹿児島城周辺の観光スポット・史跡めぐり
私学校跡、西郷隆盛像、照国神社(島津斉彬公祭神)、南州翁終焉の地等多数。また、お城から車で20分ほどのところに島津氏19代光久が別邸として建造した「磯庭園」があります。廃藩後は鶴丸城よりここに移り住んだそうだそうです。(投稿者:林田公範)
鹿児島城周辺グルメ・名物料理
鹿児島の繁華街や天文館は、もともとは武家屋敷のあったエリアらしい。「古里の水車小屋」で民芸料理はいかが? 城山中腹の西郷洞窟の前。または城山の頂上にある「城山観光ホテル」。最上階のスカイラウンジの3色シャーベットは眺めとともに、おいしいらしい。 (投稿者:林田公範)
鹿児島城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:鹿児島県鹿児島市城山町
県別一覧:[鹿児島県]
アクセス
鉄道利用
JR鹿児島本線、鹿児島駅下車、徒歩15分。JR西鹿児島駅からは、市電・バス「市役所前」降車、徒歩5分。または、カゴシマシティビューで12分「薩摩義士碑」降車すぐ。
マイカー利用
鹿児島東西道路、建部ICから約2.8km、または、田上ICから約3.6km。黎明館の無料駐車場を目指す。
鹿児島城周辺ホテル・宿泊情報
鹿児島市の中央に位置するため、数多くあります。ちなみに背後の城山の頂上にある城山観光ホテルは夜景や桜島など眺めが最高。
鹿児島城:城ファンの知見と記録
鹿児島城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全6件)。







鶴丸城、「薩摩は人をもって城となす」だけあって、訪れると例えば、城と感じる縄張の巧みさなどは感じられない。77万石なのに屋形づくり。
鹿児島城(鶴丸城)では、大手の御楼門と御角櫓の復元計画が進行中。
本丸址に黎明館と呼ばれる歴史資料館があり、古代から近代までの鹿児島の歴史を知ることができる。各コーナーごとに専属のガイドさんがいるので、質問すると丁寧に教えてくださいます。
背後に城山があり、その麓に館を構えた島津氏の本城「鶴丸城」は、現在大手門址付近に堀と石垣を残すのみであった。薩摩独自の外城制のためか、大藩の割にその本城は質素な造りであったようだ。
鹿児島城跡地には、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」が建っています。ここには鹿児島に関する貴重な史料が多数収められいます。また、鹿児島城付近は「歴史と文化の道」と名づけられ、有名な西郷隆盛像や私学校跡など他の史跡も多い。
鹿児島城は1602(慶長7)年に初代薩摩藩主・島津家久(忠恒)の命によって築城をし、2年後に完成しています。この城は、近代的な天守を持たない館作りの居館で、これは“城をもって守りとなさず、人をもって守りとなす”の精神によるものでした。現在は、本丸跡の石垣と堀の一部が残っています。別名の鶴丸城とは、背後の山が鶴丸山と呼ばれていたためにつけられた名前です。