田峯城は、文明2年(1470)に菅沼定信が築いたとされ、長篠合戦後には凄惨な内乱の舞台となった奥三河の山城。寒狭川を望む丘陵上に曲輪や空堀が残り、本丸には御殿や大手門、物見台が復元されている。田峯菅沼氏の歴史と城の構造、首塚など周辺の歴史スポット、アクセスを写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
田峯城の歴史・見どころ
田峯城の歴史
田峯城(だみねじょう)は、文明2年(1470)、菅沼定信によって築かれたとされる奥三河を代表する山城だ。菅沼氏は作手郷菅沼を発祥とし、田峯へ進出して勢力を広げた。戦国時代には、作手の奥平氏、長篠の菅沼氏とともに「山家三方衆」と称され、田峯菅沼氏はその一角を占めた。三氏は婚姻関係を結びながら奥三河に勢力を築いたが、今川氏、松平氏、武田氏、織田氏といった大勢力がせめぎ合うなか、その動向は複雑に変化していった。
田峯菅沼氏も当初は今川氏に属し、のち松平氏との関係を深めたが、一族すべてが同じ道を選んだわけではなかった。弘治2年(1556)には菅沼一族が敵味方に分かれて争う布里合戦が起こるなど、奥三河では同族間の対立も繰り返された。やがて田峯城主となった菅沼定忠は武田氏に従い、元亀年間から武田氏による三河侵攻に加わった。
天正3年(1575)の長篠合戦では、定忠は家老の城所道寿らとともに武田方として出陣した。しかし武田軍は織田・徳川連合軍に大敗する。武田勝頼とともに退却した定忠が田峯城へ戻ろうとしたところ、留守を守っていた叔父の菅沼定直や家老の今泉道善らが入城を拒んだ。定忠は田峯城へ戻ることができず、武節城を経て信濃へ逃れた。これが、田峯城の歴史に残る内乱へとつながっていく。
翌天正4年(1576)7月14日、定忠は田峯城を急襲した。設楽町に伝わる記録では、謀反に加わった一族ら96人が殺害され、主謀者とされた今泉道善は鋸引きの刑に処されたという。城跡周辺には、道善処刑の地と伝わる「道善畑」や、犠牲者の首をさらしたと伝わる「首塚」が残り、戦国時代の奥三河で起きた凄惨な争いを今日に伝えている。
その後、天正10年(1582)には定忠に代わり、従兄弟にあたる菅沼定利が徳川方の命によって田峯城主となった。翌天正11年(1583)、定利が飯田郡代となって田峯を離れると、田峯城は廃城となった。山間の小勢力であった田峯菅沼氏にとって、今川、武田、徳川など周囲の大勢力との関係を見極めることは、一族の存続そのものにかかわる選択だった。田峯城の歴史には、戦国時代の奥三河を生きた国衆たちの複雑な姿が色濃く残されている。
田峯城の特徴と構造
田峯城は、段戸連峰を間近に望み、寒狭川を見下ろす標高387mの独立丘陵上に築かれた山城。城域は東西約250m、南北約150mに及び、三方を急斜面に囲まれ、背後には寒狭川が流れる天然の要害となっている。大手口側には谷の地形を利用した空堀が設けられ、本丸へ向かって複数の曲輪が段階的に配置されている。
本丸を中心に、北西側には道寿曲輪、厩曲輪、蔵屋敷、井戸曲輪などが連なり、さらに御台様屋敷、あぜ曲輪、表曲輪、裏曲輪などが配置されている。『日本城郭大系』では出曲輪を含めて十余の曲輪が確認され、曲輪の数と規模から、主要家臣の居館を含む居館城としての性格も指摘されている。一方、これほどの規模を持ちながら、土塁がほとんど見られないことも特徴のひとつとなっている。
現在も曲輪や空堀などの遺構が残り、城跡からは寒狭川が大きく蛇行する地形を見下ろすことができ、その山容から「蛇頭城」「竜の城」の別称でも呼ばれてきた。奥三河の複雑な山地と河川を防御に取り込んだ、中世後期を代表する山城の姿を伝えている。





田峯城の整備状況
田峯城跡は現在、「歴史の里 田峯城」として整備されている。城跡には曲輪や空堀、大手門跡などの遺構が残る一方、城郭建築については当時の資料が極めて少ないため、他の中世城郭を参考に本丸御殿、本丸大手門、物見台などが木造復元されている。本丸御殿は中世武家屋敷の主殿を参考にした書院造りで、物見台からは寒狭川と奥三河の山並みを望むことができる。
令和8年度(2026)には、城入口付近の法面をより歴史に沿った土地の形状へ改修し、築城当時の様子に近づける工事が計画されている。
参考文献:
- 『日本城郭大系』(新人物往来社)
- Webサイト「歴史の里 田峯城」(設楽町観光協会)
田峯城の撮影スポット・絶景ポイント
田峯城撮影のコツ
田峯城は、撮影場所によって午前と午後で光の向きが異なる。城内は比較的コンパクトなので、すべてを順光で狙うために時間帯を分けて訪れるより、逆光になる場所では露出補正を強めに設定するなど、光に合わせて撮影するのが現実的だろう。光がやわらかく全体にまわる曇天も撮影しやすい。
遠景は日光寺境内からの眺めが良いとされているが、近年は木々が成長し、復元された本丸御殿などが見えにくくなっている。
旧豊橋鉄道田口線の三河大草駅跡
近代遺跡になるが、三河大草駅跡は、そこへ至る道中も含めて感性を刺激される場所だ。木々に包まれた一帯は薄暗いものの、不思議と怖さはなく、むしろすがすがしさを感じる。かつて列車が行き交った面影を残すホーム跡やトンネルが残り、往時ここで乗り降りする女生徒を写した写真も伝わっている。廃線跡ならではの時間の積み重なりを感じながら、カメラを向けたくなる場所だ。


三河大草駅跡は、田峯城から県道32号線を南下した新城市富保中ノ久保にあり、途中には「人質 虎之助 処刑の地」もある。田峯城とあわせて訪ねておきたい。詳しい場所は、下記Googleマップ参照。
道の駅 したら
「道の駅 したら」は、設楽町清崎にある道の駅で、館内には設楽町の自然や歴史、文化を紹介する奥三河郷土館が併設されている。ここには、かつて豊橋と奥三河を結んだ旧豊橋鉄道田口線の木造車両「モハ14」も保存・展示されており、三河大草駅跡を訪ねたあとに立ち寄れば、田口線の往時をより身近に感じることができる。地元の特産品や農産物を扱う売店、食事処などもあり、田峯城とあわせて巡る際の休憩や情報収集にも利用しやすい。

田峯城周辺の観光スポット・史跡めぐり
首塚
田峯城跡から離れた山中、作手街道の辻に、天正4年(1576)の「田峯城内乱」にまつわる首塚が残る。前年の天正3年(1575)、長篠合戦で武田方として戦った城主・菅沼定忠は、敗走する武田勝頼とともに田峯城へ戻ろうとした。しかし、留守居を務めていた叔父の菅沼定直や家老の今泉道善らに入城を拒まれ、武節城を経て信濃へ逃れた。
復讐を誓った定忠は、翌天正4年(1576)7月14日に田峯城を急襲した。設楽町に伝わる記録では、このとき謀反に加わった一族の老若男女96人が殺害され、主だった者の首がこの場所にさらされたという。

首塚には、大小の一石五輪塔など約20基が集められている。山の中を延びる作手街道の辻にあり、資料館で道を尋ねて訪れた。なかでも目を引いたのは、小さな一石五輪塔。これほど小さなものを目にしたのは初めてだった。人里から離れた山中にありながら、訪れたときには草花が供えられていたことも印象に残った。四百数十年前の凄惨な出来事が、土地の記憶として今も受け継がれていることを感じさせる場所だった。首塚は、田峯城から西へ車で6分(2.6km)、車道脇から登山約5分。詳しい場所は、下記Googleマップ参照。
道善処刑の地(道善畑)
長篠合戦後の田峯城内乱で、城主・菅沼定忠に背いた家老・今泉道善が処刑されたと伝わる場所。
田峯観音
田峯城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:愛知県北設楽郡設楽町田峯城9 [地図を見る]
県別一覧:[愛知県の城]
電話:0536-64-5505(田峯城)
開館情報
9:00~16:00、大人220円、子供(小・中学生)100円、月曜(祝日の場合は翌日)・年末年始(12/29~1/3)休館。
アクセス
鉄道利用
JR飯田線、新城駅から豊鉄バス約40分「田峯」降車、北へ徒歩30分。
マイカー利用
東海環状自動車道「豊田勘八IC」、または東名高速道路・猿投グリーンロード「力石IC」から、東へ約57分(約45km)。または、新東名高速道路「新城IC」から北へ27分(約20.7km)。無料駐車場(10~15台)有り。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
田峯城:城ファンの知見と記録
田峯城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全3件)。
田峯城でのひとときを、そっと記録に残す








こぢんまりした城なので気軽に見られると思っていたが、周辺まで巡ってみるとなかなか奥深かった。田峯観音や首塚にも足を延ばすと、この土地で起きた歴史がぐっと身近に感じられる。
記録:安国寺AK 2025
思っていた以上に山深い場所でした。御殿の中を見学したあと、物見台へ上がると一気に視界が開けます。実は建物だけでなく堀切なども残っているので、城跡を歩く楽しさも。一方で山城が好きな方には、建物のディテールが甘く、いまいちかもしれません。
記録:光秀 2022
実際に中に入り、復元された本丸御殿、物見櫓など実際中に入り見物することができます。本丸御殿では、管理されている方がお茶をご馳走しくれたうえ、お殿様の気分を味あわせていただけました。(お殿様の肘置き、座布団が準備されています)物見櫓から眺める景色は大変見応えがあります。
記録:菜飯田楽 2011