池田城の歴史

摂津池田城はその築城年代も、また池田氏の出自も解明すべき点が多く有ります。しかし、池田という地は古くから交通の要衝であり、経済もまた発達していましたので、畿内では要地でした。歴史上の出来事に池田や池田氏は密接に関連しています。この地を掌握していた池田氏もその出自を辿ると、尾張・美濃の池田氏との関連も伝えられています。尾張池田氏はその後、岡山を代表する池田氏になりますから、この関連性が明らかになっていくと、通説とされる歴史も変わるかもしれません。

池田城は1400年代初頭に現在の地にその基礎を築いたとの説が有力ですが、1336年の古文書にも「池田城」の名が見られることから、この頃に遡られるのではないかという説もあります。いくつか残る摂津池田氏の系図によると、初代城主池田教依(のりより)で、次第に池田氏は力をつけ始めます。金融業などで成功し、織田信長が摂津へ侵攻する1568年(永禄11)には有力国人となっていました。この時池田氏は、その後活躍する荒木村重や中川清秀を家臣に持ち織田勢と一戦しますが降伏します。市には放火され、城は焼け落ちます。しかし、加増と摂津三守護に命ぜられ、織田氏の配下となって各地を転戦します。

その後、荒木村重が摂津の支配者となり、信長に対して謀反を起しますがその時再び池田は「古池田」として城の跡地が利用されていたようです。信長は度々この地から指揮を執り、時には鷹狩りなどをしていたようです。また、古文書によると池田城は、惣(総)構えがあったとされる記述があり、これらが今後の発掘などによって明らかになれば、城郭史や荒木村重等の人物研究にも大きな影響があるものと期待されます。地理的や人的に中央と密接に結びついているため、今後の発掘や調査によって、また新たな方向が見えてくるということは十分あり得ます。今後の調査に期待をしたいところです。
(文=柏床宜宏)

現地で見るべき遺構

池田城は中世から戦国時代の動乱期に五月山南麓に築かれた平山城。平成元年から4年をかけて発掘調査を行い、池田城跡公園として整備された。公園化されている範囲は主郭部。平成初期の公園化のため、復興櫓や城門など発掘調査で確認されていないものも含まれている(現地案内板には各遺構が復元か復興か解るかたちで明記されている)。

公園内の遺構は次の通り(池田城Googleマップ参照)。

池田城主郭東側の空堀
主郭東側の空堀

池田城虎口門(復元)
虎口門(復元)

池田城虎口門脇の土塁
虎口門脇の土塁

排水溝(復元)
排水溝(復元)

池田城井戸(復元)
井戸(復元)

池田城枯山水
枯山水

池田城建物礎石
建物礎石

そのほか、資料として池田城址公園の模擬天守内に、池田城の概要がパネル展示されている。また、池田城公園東側すぐの「池田市教育委員会教育部教育センター(旧 城山勤労者センター)」に池田城の城郭模型が展示されている。

また、城跡の東にある「雅俗山荘(がぞくさんそう)」に足を運ぶと良い。小林一三の邸宅で近代建築だが、その門は、東能登村の庄屋から江戸期の長屋門が移築されている。また、門前の道は、池田城の三の丸の堀跡となる。

(写真=岡 泰行)

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