写真:岡 泰行

池田城の歴史と見どころ

池田城(いけだじょう)は、建武元年(1334)に池田教依が城を築き、嘉吉3年(1443)頃に、池田充正が三の丸を拡張する。五月山の南麓に延びる尾根を利用した城郭で代々池田氏が城主を務めた。城下に能勢街道が走る。池田21人衆のひとり、荒木村重が頭角を現して後は、和田惟政や茨木氏、伊丹氏を討ち取るなど領土を拡張した。

池田城の歴史

摂津池田城はその築城年代も、また池田氏の出自も解明すべき点が多く有ります。しかし、池田という地は古くから交通の要衝であり、経済もまた発達していましたので、畿内では要地でした。歴史上の出来事に池田や池田氏は密接に関連しています。この地を掌握していた池田氏もその出自を辿ると、尾張・美濃の池田氏との関連も伝えられています。尾張池田氏はその後、岡山を代表する池田氏になりますから、この関連性が明らかになっていくと、通説とされる歴史も変わるかもしれません。

池田城は1400年代初頭に現在の地にその基礎を築いたとの説が有力ですが、1336年の古文書にも「池田城」の名が見られることから、この頃に遡られるのではないかという説もあります。いくつか残る摂津池田氏の系図によると、初代城主池田教依(のりより)で、次第に池田氏は力をつけ始めます。金融業などで成功し、織田信長が摂津へ侵攻する1568年(永禄11)には有力国人となっていました。この時池田氏は、その後活躍する荒木村重や中川清秀を家臣に持ち織田勢と一戦しますが降伏します。市には放火され、城は焼け落ちます。しかし、加増と摂津三守護に命ぜられ、織田氏の配下となって各地を転戦します。

その後、荒木村重が摂津の支配者となり、信長に対して謀反を起しますがその時再び池田は「古池田」として城の跡地が利用されていたようです。信長は度々この地から指揮を執り、時には鷹狩りなどをしていたようです。また、古文書によると池田城は、惣(総)構えがあったとされる記述があり、これらが今後の発掘などによって明らかになれば、城郭史や荒木村重等の人物研究にも大きな影響があるものと期待されます。地理的や人的に中央と密接に結びついているため、今後の発掘や調査によって、また新たな方向が見えてくるということは十分あり得ます。今後の調査に期待をしたいところです。
(文=柏床宜宏)

池田城の遺構

池田城は中世から戦国時代の動乱期に五月山南麓に築かれた平山城。平成元年から4年をかけて発掘調査を行い、池田城跡公園として整備された。公園化されている範囲は主郭部。平成初期の公園化のため、復興櫓や城門など発掘調査で確認されていないものも含まれている(現地案内板には各遺構が復元か復興か解るかたちで明記されている)。

公園内の遺構は次の通り(池田城Googleマップ参照)。

池田城主郭東側の空堀
主郭東側の空堀

池田城虎口門(復元)
虎口門(復元)

池田城虎口門脇の土塁
虎口門脇の土塁

排水溝(復元)
排水溝(復元)

池田城井戸(復元)
井戸(復元)

池田城枯山水
枯山水

池田城建物礎石
建物礎石

そのほか、資料として池田城址公園の模擬天守内に、池田城の概要がパネル展示されている。また、池田城公園東側すぐの「池田市教育委員会教育部教育センター(旧 城山勤労者センター)」に池田城の城郭模型が展示されている。

また、城跡の東にある「雅俗山荘(がぞくさんそう)」に足を運ぶと良い。小林一三の邸宅で近代建築だが、その門は、東能登村の庄屋から江戸期の長屋門が移築されている。また、門前の道は、池田城の三の丸の堀跡となる。

池田城の関連史跡

能勢街道と(伝)荒木村重の塚

(伝)荒木村重の塚池田城の南には、能勢街道が東西に走っており、これを東へ約15分歩くと、池田市立歴史民俗資料館(池田市図書館)がある。池田城跡出土資料として磁器や陶器が所蔵されているほか、屋外には(伝)荒木村重の塚があり、その裏山は五月丘古墳となっており、その内部が屋外展示されている。なお、(伝)荒木村重の塚は池田市内にあったものが移設されている。荒木村重は摂津の国人、池田氏のもとから身を起こした。

源満仲公像

JR川西池田駅、北口のターミナルには、源満仲公像(騎馬像)がある。源頼朝や足利尊氏など満仲公の子孫とされることから、この地は「清和源氏発祥の地」とされている。

雅俗山荘

雅俗山荘池田城の三ノ丸の堀跡となっている道路を北上すると、右手に「雅俗山荘(がぞくさんそう)」が現れる。阪急電鉄や宝塚歌劇団の産みの親、小林一三の邸宅でその内部を見学できる(登録有形文化財建造物・昭和12年竣工)。余談ながら阪急電鉄、阪急百貨店というと関西では知名度が高いが、関東では東急の開業に尽力、『七人の侍』や『ゴジラ』などを制作した東宝の産みの親となった人物だ。邸宅は昭和初期の意匠など細部にわたり工夫が見られるほか、その門は東能登村の庄屋から江戸期の長屋門が移築されている。門扉が一枚板の立派な長屋門なので見ておくと良い。

池田城のおすすめ旅グルメ

福助堂「福助堂」和菓子のお店で旧能勢街道添いにある(大阪府池田市建石町3-2)。添加物などは一切使用されておらず素朴な味わい。阪急電鉄の産みの親、小林一三がこよなく愛した。箱入りの商品はお菓子とともに名刺サイズほどの「池田城推定復元図」が付いてくるぞ。

池田城のアクセス・所在地

所在地

住所:大阪府池田市城山町3-46 [MAP] 県別一覧[大阪府]

電話:072-753-2767(池田城跡公園管理事務所)

開館時間

池田城跡公園となっており、季節により開園時間が異なる。夏期開園時間(4月〜10月)は9時〜19時、冬期開園時間(11月〜3月)は9時〜17時。休園日は火曜(祝日は営業・翌日は振替休園)。

アクセス

鉄道利用

阪急電鉄、宝塚本線、池田駅下車、北へ徒歩12分(850m)。

マイカー利用

中国自動車道、中国池田ICから北へ5.6km(約10分)、または、阪神高速道路「小西心花」から東へ1.4km(約5分)。五月山緑地駐車場(有料)を利用する。

城ファンの気になるところ (4)

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    池田氏と池田城と歴史はこんな感じです。鎌倉時代初頭に築かれて、室町時代初頭に池田教依(いけだのりより)によって城としての形態が整った。嘉吉3年(1443年)には、池田充正(いけだみつまさ)が三の丸を拡張するなど城の規模拡大を行っている。この頃に城下町池田が形成された。永正5年(1508年)に、池田貞正は細川高国と戦い、城は落城した。その後、貞正の子、池田久宗が池田城を奪回した。永禄11年(1568年)織田信長が摂津に出陣したとき、池田勝正は信長に降伏し、摂津三守護に任じられている。天正7年(1579年)に、荒木村重が信長に謀反を起こした時、池田重成は荒木氏に従い、運命を共にしている。天正8年(1580年)に信長が、筒井順慶に摂津・河内・和泉の破城を命じた時に廃城となった。2000年4月1日に池田市城址公園の整備が終わりオープンします。

    ( 中西)

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    実は私は大阪池田市に実家があります。今年に入って頻繁に池田の実家に帰ることがあったのですが、池田城が復元されているのを見て、びっくりしました。しばらく帰っていないといろんなところが様変わりするものですね。

    ( 田畑)

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    池田城に関してですが 昭和42年、44年の二次にわたり発掘が行われ、建物や庭園遺構が検出されましたが、瓦の出土は若干量であり檜皮か萱葺屋根だったようです。

    ( 中尉)

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    平成元年〜4年までの発掘調査から、枯山水、井戸、虎口などを復元、公園化されている。天守は史実に基づいたものではない。東門(大手門)側の空堀跡が見事。その規模が分かる。公園は毎週火曜日休園。

    ( 左近)

城の情報

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