石山本願寺

一説には信長が最終の居城と考えていたといわれる石山の地(石山は大坂の別名)。また、大坂城(大阪城)と言えば、誰でも秀吉を思い出す。だがその地には、元々は、信長が足かけ10年あまりの歳月をかけ、一向宗の本拠、石山本願寺があった。石山本願寺は浄土真宗の本山で濠や土居といった防御機能を持ち、鉄砲集団である雑賀衆とも通じ、数多くの僧兵を持っていたとされる。

蓮如上人六字名号の碑(大阪城内)
写真は蓮如上人六字名号の碑(大阪城内)

真宗大谷派第11代門首、顕如のとき、反織田勢力と手を結び、信長包囲網を完成させるなど信長と敵対した。天正8年(1580)、朝廷の仲介により和議が結ばれ、信長は本願寺を紀州へと追いやり、丹羽長秀や織田信澄などを常駐させ(信長の番城)、本能寺の変までの2年間は織田信長が初代の城主となった。

豊臣大坂城の誕生

本能寺の変の後、天正10年(1582)、池田恒興が摂津一国で入封、その1年後に秀吉は、この本願寺の遺構を利用することから始まり、3年半の歳月をかけて難攻不落の名城、大坂城が誕生する。西国30のあまりの大名に命じ築城を開始した。城郭はその経済力・労働力から、ほぼ2年あまりで完成し、さらに外郭の工事が進められ、それまでにない規模の大城郭となった。城攻めの達人の当の秀吉も、正面から落とす方法はないと言ったほどである。遠く、大坂湾から見える栄華を極めたその城は、どんなものだったのだろう。

豊臣大坂城の詰ノ丸石垣
豊臣大坂城の本丸、詰ノ丸石垣。写真は2014年再発掘時。

徳川大坂城の誕生

大坂冬の陣後、家康が大坂城の外堀を埋め、元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣氏は秀吉の大坂城と共に滅ぶ。大坂城はその後、徳川氏のものとなり、西国64藩に命じ、元和6(1620)年から約10年の歳月をかけ、豊臣大坂城に代々的に盛り土を行い、より大きな大坂城を築城し直した。松平忠明が摂津大坂藩10万石で入って後は、明治維新まで常に城代が入ることになる。現在の大阪城は、徳川時代の重要文化財の櫓や門が多数残り、その壮大な石垣や縄張は目を見張るものがある。

徳川大坂城
大阪歴史博物館から見る徳川大坂城。

城郭に見る歴史香るネーミング

徳川期大坂城にもかつての歴史が香る場所とネーミングがある。現存櫓のひとつ、千貫櫓は、信長が石山を攻めているとき、かなり邪魔になった存在で落とした者に千貫与えると信長が言ったという。そのほか、極楽橋や山里曲輪など、石山本願寺時代、または秀吉時代から引き継いだネーミングが見られるという。また城の縄張も共通点が散見される。

大阪城極楽橋
写真は大阪城極楽橋。一説によると、大坂本願寺時代、豊臣大坂城時代にも存在していた。

大阪城の歴代天守

現在の大阪城天守閣は、大阪市民の寄付金で昭和6年(1931)に鉄骨鉄筋コンクリート工法で再建されたもので、外観は徳川時代の天守台に豊臣時代のデザインを模したもの。寛文5年(1665)に落雷で焼失して以来の再現だ。秀吉の初代天守が、天正13年(1585)〜慶長20年(1615)までの30年間、徳川秀忠が再建した二代目の天守が寛永3年(1626)〜寛文5年(1665)までの39年間、現代の天守が昭和6年(1931)から時を刻み平成30年(2018)には87年となり、歴史上、もっとも長く建っている天守となる。

大阪城天守閣
西の丸庭園から見る大阪城天守閣。

太閤さんの城を今に

再建後、あまり時もたたない内に、人は、現在、目にするものを秀吉の城と信じて疑わなくなった。秀吉人気が今も根強く残っているからだろう。現在、地下にある秀吉の大坂城の石垣を掘り起こし見学施設建設を目指す「豊臣石垣公開プロジェクト」が大阪市の手によって進められている。

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