写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

三戸城の歴史と見どころ

三戸城(さんのへじょう)は三戸町梅内に位置し、馬淵川と熊原川が交わる丘陵上(留ヶ崎)に築かれた山城だ。南部氏の本拠として知られ、天文8年(1539)に焼失した聖寿館に代わる居城として、24代南部晴政が永禄年間(1558〜70)頃に築いたと伝わる。以後、二十六代信直の代に至るまで、南部宗家の中枢を担った。

天正18年(1590)、信直は豊臣秀吉から本領を安堵され、その朱印状により三戸城と城下町が整備された。条文には家臣たちの妻子を城下に住まわせるよう命じる記述があり、このころ城内には重臣の屋敷が立ち並び、城郭都市としての形が整ったとみられる。

この城は天険の要害を巧みに生かし、北を断崖、南を湿地と池沼で囲んで防備を固めた。主要な門には綱御門・鍛冶屋御門・大御門などがあり、特に綱御門には「心経綱」を掛けて安泰を祈ったという。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置で、南部家は戦国時代から支配していた津軽四郡を失った。これは家臣の大浦為信(後の津軽氏)の支配が公認されたためである。これにより、三戸は南部領の北方に位置することになり、信直は岩手郡不来方(盛岡)への新城築城を決定した。築城工事は慶長2年(1597)に着工し、寛永10年(1633)に盛岡城が完成した。以後、三戸城は破却されずに残り、寛永年間(1624-44)頃から城代の居城として存続し、貞享年間(1684〜88)には代官支配に移行、明治維新を迎えた。

三戸城の特徴と構造

標高130mの山頂に築かれた三戸城は、東西約900m、南北約200mの細長い台地を利用した山城だ。南は湿地と沼(大堤・小堤)を天然の堀とし、北は切り立つ断崖で守られていた。城の北西に大手口があり、下馬御門から綱御門、旭御門、鳩御門を経て本丸に至る構造をもつ。本丸には藩主御殿や御三階櫓、庭園が設けられ、深い井戸も備わっていた。石垣は主に安山岩質の火成岩を用い、角部には加工した花崗岩を積んで強化している。

また、湧水の多い地形を生かし、鶴池・也池を貯水池兼水堀として活用した。搦手の鍛冶屋御門は堅牢な石垣で固められ、警備の要所であったと伝わる。現在も空堀・土塁・石垣跡が残り、往時の規模を偲ばせる。城跡の一部には、本丸御殿庭園を飾っていた「心字の庭石」などが復元保存され、南部氏の本城としての威容を今に伝えている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系2』 (新人物往来社)

三戸城の撮影スポット

三戸城の模擬天守は、城内側から観ることになるが、ざっくり言うと北向きだ。できれば、光がよくまわる曇天か、もしくは朝に撮影したい。また、石垣が累々と残る虎口「鍛冶屋御門跡」も曇天の撮影が適している。

三戸城の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、三戸城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

三戸城の周辺史跡を訪ねて

旧圓子家 武家居宅

絵図面を参考に利用できる資材はそのまま活用し平成5年に復元。内部は兵法書・槍術秘伝・棒術秘伝などの古文書を展示。樹齢750年、日本最古の「かしわの木」も。場所は三戸郡倉石村。開館時間は9:00~16:00、月・水・金休業。

三戸城の周辺おすすめ名物料理

三戸城の城下では、素朴で滋味深い南部の味が今も息づく。代表的なのは「三戸せんべい」。小麦粉を焼き上げた香ばしさと、ふちに残る“みみ”の歯ざわりが特徴で、えごまやごま、砂糖味など種類も豊富だ。また、そば粉や小麦粉の生地を三角に切って味噌を添える郷土料理「かっけ(つつけ)」も見逃せない。にんにく味噌やくるみ味噌を添え、家庭ごとの味がある。さらに、昼夜の寒暖差が生むりんごや黒にんにくも三戸の名産。旅の合間に道の駅や町の食堂で、土地の恵みを味わいたい。

三戸城の観光情報・アクセス

所在地

住所:青森県三戸郡三戸町梅内字城ノ下 [MAP] 県別一覧[青森県]

電話0179-22-2739(三戸町立歴史民俗資料館)

開館時間

三戸町立歴史民俗資料館の開館時間は、9:00~16:00。月曜・祝日の翌日・12月1日〜翌年3月末の冬季期間は休館。

鉄道利用

JR東北本線、三戸駅下車、バス10分「公園前」または「病院前」降車、徒歩20分。

マイカー利用

八戸自動車道、一戸ICから国道4号線を北上、26km(約35分)。または、八戸ICから西へ27km(約45分)。

三戸城:城ファンたちの記憶

実際に三戸城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全7件)。

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    「さんのへ」と読む。その昔、南部氏の所領に「一戸(いちのへ)」〜「九戸(くのへ)」まであり、現在、知名度が高いのが八戸(はちのへ)と三戸である。三戸の町は、狭い山あいにあり、バスや駅舎など古くなった町のパーツがところどころに見られ、その昔、にぎわっていた町を思わせる。その盆地に顔を出したように突出しているひとつの山が三戸城址で、山頂は公園整備がなされており、復興の小さな天守と城門が建つ。今や八戸の方が大きい町だが、もともと南部氏はこの三戸にあった。現地の古老によると、ゆえに今でも三戸の人は、八戸や盛岡(南部氏に関係する近郊の都市)よりもプライドが高いことがあるのだとか。

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    搦め手門からの登城がおすすめですよ。

    工藤克明)

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    三戸城は、ついつい復興天守に目がいきがちだが、発掘された鍛冶屋御門跡の虎口が実に山城らしい遺構。また、綱御門付近石垣も見応えがある。

    shirofan)

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    三戸城も桜がある。桜について少し。全国の公園によくあるソメイヨシノと呼ばれる桜は園芸種らしく、江戸の染井村(豊島区駒込)が発祥とのこと。元の名は「吉野桜」だったが、奈良の吉野桜と区別するために、その名前に地名を盛り込んだ。

    現地の古老曰く、ソメイヨシノは最低6〜10m間隔以上で植える必要があり、しだれ桜は最低7m間隔だそうだ。三戸城では、それまで植えてあった桜を、その間隔に移動させ整備するといったことをしたそうだ。また、根の部分は人が踏み固めてしまうと桜が弱るらしく、公園に植える際は保護に注意が必要なのだとか。そういえば姫路城の桜は、根の部分が保護されておらず踏み固められ弱っている。

    手入れをすると咲いている時間も長い。ふと思えば、弘前公園(弘前城)は、桜の木は堀端などに植えてあり、柵が設けてあって根のところには、近づけない。単に堀に人が落ちないように設置された柵かと思っていたが桜を守る効果も高いようだ。

    青森県界隈で有名な桜スポットは、「角館」「北上展勝地」「弘前公園」の3つらしく、これらの桜は、1つのつぼみから、5つの花が咲くように手入れされているそうだ。弱ったり年老いた桜は、ひとつのつぼみから、2つほどしか花を付けないとのこと。

    2005年現在の三戸城の公園では、手入れが悪く、てんぐ巣病という病気にかかった桜が多く見られ弱っているものが多い。その見方を教わった。それでも復興天守裏の桜は103歳らしく、60年〜80年と一般的にいわれるソメイヨシノの寿命を大きく上回っているらしい。ちなみに日本最高齢のソメイヨシノは推定樹齢120年で弘前城にある。

    shirofan)

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    城は、搦手(からめて)の石垣が、発掘により顔を出している。崩れたままの状態で、2005年現在、予算の関係もあって整備までされるかどうか分からないらしい。その崩れかけの美しさが、城跡という過去の遺跡にいかにもぴったりくる場所で、ここで繰り返しシャッターを切った。気が付けば雨もひどくなりカメラもびしょぬれで退散した。余談だが、三戸城が築城される前は、聖寿寺館(しょうじゅうじたて)という城がその本拠だったがこちらも発掘が進んでおり、整備計画があるらしい。

    shirofan)

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    南部宗家である三戸南部氏は聖寿寺館(本三戸城)を居城としていましたが、天文8年(1539)24代晴政の時に消失したため、永禄年間にここ三戸城を居城としました。その後28代重直が盛岡城に移るまで使用されましたが、その後貞享年間まで城代が置かれ、城代廃止後代官所が置かれ、明治維新を迎えました。
    三戸市街に入ると「城山公園」という標識がありましたのでそれに従い進みました。公園内に入り坂道を登っていくと「三戸城址」の碑があり、さらに登っていくと道路脇の左側に石垣が少し残っていました。そこからさらに登ると上に駐車場があったので、そこに車を停め探索することにしました。まずは駐車場のすぐ横、糠部神社の裏あたりが大御門跡で土塁が若干残っていました。そこから神社の社殿を右に見ながら進むと模擬天守?がありましたが、もうすでに5時近かったので閉まっていました。そして鳥居をくぐって下の方に降りていくと途中に「○○城主○○邸跡」という標柱が至るところにあり、この三戸城に重臣達を集住させていたのがうかがえました。
    そして鳩御門跡、武者溜跡を過ぎると綱御門跡です。現在は復元(模擬?)された綱御門が立っていますが、端の方に残っている石垣は門につながる石垣とは違って若干古そうでしたので、遺構なのでしょうね。
    そこから再び登っていくと鳥居の左の方に土塁が残っており、先ほどの駐車場のすぐ横に太鼓櫓跡もありました。
    今度は裏側の方に行こうと思いましたが、もうだいぶん疲れてきましたので、車で淡路丸、鍛冶屋御門跡の辺りまで行ってみました。後からある資料を見たらこの鍛冶屋御門跡に石垣が残っていたようなのですが、それを見なかったのが大失敗でした。

    窪田 剛)

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    三戸南部氏の居城。盛岡に城を移すまで南部氏の居城であった。だいたい、晴政、晴継、信直、利直くらいかな?今は城の跡形はないが町が一億円かけて造った綱御門は素晴らしいよ。あと城の隣に温故館っていう資料館があり、南部藩関係資料などがあります。春は桜の名所。

    うめのすけ)

城の情報

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