大聖寺城は中世から戦国時代に江沼平野の拠点となり、加賀一向一揆や織田・豊臣氏の支配を経た城。錦城山の丘陵を生かして曲輪や土塁、空堀を配し、本丸の石垣や石組溝などの遺構も確認されている。このページでは大聖寺城の歴史や特徴、遺構、アクセスを紹介する。
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大聖寺城の歴史・見どころ
大聖寺城の歴史
大聖寺城(だいしょうじじょう)は錦城とも呼ばれ、中世から戦国時代にかけて江沼平野と大聖寺川下流域を押さえる拠点として利用された。城の初見は『太平記』にあり、建武2年(1335)、北条氏の残党・名越時兼が越中・能登・加賀の兵を率いて京都へ向かおうとした際、狩野一門の土豪であった敷地・上木・山岸・福田氏らが大聖寺城に拠って迎え撃ったと記される。建武4年(1337)には津葉五郎清文が居城していたが、脇屋義助の配下・畑六郎左衛門時能についた敷地伊豆守、上木平九郎、山岸新左衛門らの攻撃を受け、落城した。
その後の経緯には不明な部分があるものの、戦国時代には日谷城とともに加賀一向一揆勢の拠点となり、越前朝倉氏の侵攻に際してはたびたび占拠された。天正3年(1575)、織田信長が越前の一向一揆を平定すると、柴田勝家を加賀へ進攻させ、江沼・能美両郡を掌握した。大聖寺城も織田氏の支配下に入り、修復が行われたとされる。
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗れると、北ノ庄城を本拠とした丹羽長秀の配下となった溝口秀勝が大聖寺城主となった。豊臣政権下でも城は支配拠点として用いられ、慶長3年(1598)には小早川秀秋の配下・山口玄蕃宗永が城主となり、中世以来の城郭を改修したとされる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍方についた宗永と前田利長が対立した。前田軍は大聖寺城を攻撃し、同年8月3日に落城。宗永もこの戦いで敗れた。『日本城郭大系』では二の丸を激戦地と伝えている。その後、大聖寺城は前田氏の支配下に入り、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。寛永16年(1639)、前田利常の三男・利治が10万石で大聖寺に分封された際にも旧城には入らず、東山麓に陣屋を構えた。
大聖寺城の特徴と構造
大聖寺城は加賀市大聖寺の市街地西方、標高約70m、比高約65mの錦城山に位置し、城域は約400m×500mに及ぶ。江沼平野に臨み、北方を流れる大聖寺川と三谷川を外堀のように利用できる丘陵上に築かれた。独立する三つの丘陵を鞍部や堀切で結び、本丸を中心に二の丸、三の丸、鐘が丸、西の丸、東丸などの曲輪を配置する。
本丸は約45m×17mで、馬洗い池側に高さ約4mの鉤形の土塁を設ける。二の丸は約33m×60mで、西側と北東側に土塁を備え、その北側には三の丸が位置する。鐘が丸は約100m×50mと大きく、西・南側には高さ約3~4mの土塁が築かれている。本丸・二の丸・西の丸に囲まれた谷には馬洗い池がある。江戸時代の城絵図と縄張調査・測量調査の成果は概ね一致し、戸次丸や対面所などを含む曲輪や虎口、城内道も確認されている。発掘調査では本丸から石垣と石組溝、二の丸から空堀が確認され、対面所では土師器が多く出土している。
大聖寺城の整備状況
大聖寺城では加賀市による発掘調査が行われ、本丸で石垣や石組溝、二の丸で空堀などが確認された。遺構は良好に保存されており、令和7年(2025)9月18日には、戦国時代の加賀国における地域支配の拠点として重要な城跡として、国史跡に指定された。
参考文献:
- 『日本城郭大系7』(新人物往来社)
- Webサイト「大聖寺城跡」(石川県)
大聖寺城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:石川県加賀市大聖寺地方町 [地図を見る]
県別一覧:[石川県の城]
電話:0761-72-7888(石川県教育委員会文化財課)
- 大聖寺城跡(公式ページ)(加賀市)
アクセス
鉄道利用
IRいしかわ鉄道線・ハピラインふくい線「大聖寺駅」下車、徒歩約17分(1.3km)。
マイカー利用
北陸自動車道「加賀IC」から約5分(3.5km)、錦城山公園駐車場有り(無料・10台)。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
大聖寺城:城ファンの知見と記録
大聖寺城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全2件)。







公園内の茶室「長流亭」は見ておきたい。小堀遠州の作、国の重要文化財に指定されている。
記録:光秀 2000
錦城公園と呼ばれる公園になっており遺構はよく残っている。本丸、二の丸、三の丸、井戸、出丸の郭が残り、土塁、堀がある。
記録:田村靖典 2000