金ヶ崎城は養和元年(1181)に史料に現れ、南北朝の動乱や元亀元年(1570)の戦いの舞台となった城だ。敦賀湾に突き出す天筒山の尾根に築かれ、城戸や堀切で尾根を断ち切る要害の構えを持つ。現在は遺構とともに周遊路が整備され、地形を体感しながら歩ける景観が広がる。このページでは金ヶ崎城の歴史と構造、見どころを紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
金ヶ崎城の歴史・見どころ
若狭湾の最東端、敦賀の地に突き出す天筒山の尾根。その先端に築かれた金ヶ崎城は、古代から交通と軍事の結節点に位置していた。敦賀は大和朝廷の北陸支配において重要な拠点とされ、陸路・海路が交わる場所として早くから人と軍勢の往来が絶えなかった。
築城の正確な時期は明らかでないが、『玉葉』養和元年(1181)9月の記録にある「津留賀城」が金ヶ崎城を指すとされ、平通盛が籠城した記録が残る。以後、この地は北陸道・塩津街道・若狭街道など複数の街道が交差し、越前・近江・若狭を結ぶ軍事拠点として機能していった。
南北朝の動乱期、延元元年/建武3年(1336)10月、新田義貞は恒良親王・尊良親王を奉じて敦賀へ入り、気比氏治の協力のもと金ヶ崎城に籠城した。しかし足利方の高師泰らに包囲され、翌延元2年/建武4年(1337)3月、城は落城する。この籠城戦では兵糧が尽き、軍馬を食すほどに追い詰められたと伝えられ、壮絶な戦いとして『太平記』にも描かれている。
その後もこの地は戦乱の舞台となる。観応2年/正平6年(1351)には足利直義が拠り、さらに長禄3年(1459)には越前守護斯波義敏と重臣甲斐常治との対立において、常治が金ヶ崎城に籠城し海上からの攻撃を退けている。こうした戦いは、城が海上交通と陸路の要衝を押さえる位置にあったことを示している。
戦国期に入ると、越前を支配した朝倉氏のもとで敦賀は重要な拠点となる。元亀元年(1570)、織田信長が越前へ侵攻すると、まず尾根続きの天筒山城を攻略し、金ヶ崎城は降伏・開城した。しかしその直後、浅井長政の離反を受けた信長は撤退を余儀なくされ、いわゆる「金ヶ崎の退き口」として知られる退却戦が展開された。この際、小谷城にあったお市が信長に危機を知らせたとする逸話も伝わる。
その後、織田政権下では敦賀の拠点は武藤舜秀が居した花城山城に移り、豊臣期には蜂谷頼隆や大谷吉継によって笙の川西岸には敦賀城が築かれるなど、軍事拠点の重心は移動した。これにより金ヶ崎城は次第に使用されなくなり、中世城郭としての役割を終えた。
江戸時代には『太平記』ゆかりの古戦場として知られ、元禄2年(1689)には松尾芭蕉が訪れ、「月いづこ鐘は沈る海の底」と詠んでいる。こうして金ヶ崎は、戦の記憶を伝える場所として人々に意識され続けた。
金ヶ崎城の特徴と構造
金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出す天筒山北西端の尾根上に築かれた山城で、海と急峻な地形を防御に取り込んだ天然の要害に位置する。三方を海に囲まれ、残る一方も切り立った地形で守られており、外部からの接近が極めて困難な立地であった。
構造は尾根筋を利用した直線的な防御線を基本とし、一の城戸・二の城戸・三の城戸と呼ばれる竪堀が連続して設けられている。一の城戸は幅約4m・深さ約4mの規模を持ち、尾根を断ち切る形で防御線を形成する。これらの城戸は一定間隔で配置され、敵の進入を段階的に阻止する構えとなっている。
三の城戸付近には約30m四方の平坦地があり、曲輪状の空間として利用されたと考えられる。その先、尾根は北へ延び、約150mで「本丸」と呼ばれる月見御殿に至るが、ここには顕著な人工的施設は確認されておらず、古墳(円墳)を利用した地形であった可能性が指摘されている。
また、一の城戸下には金前寺が位置し、居館的機能を担ったとみられる。さらに月見御殿の東、三の城戸周辺から北側にかけては「水の手」と呼ばれる区域があり、水源確保の場として重要であった。
全体として、堀切によって尾根を区切る簡素な構造を基本としつつ、二重堀切や畝状竪堀といった朝倉期の遺構も一部に見られ、地形そのものを最大限に活かした防御設計が特徴といえる。
金ヶ崎城の整備状況
現在、金ヶ崎城跡は天筒山とともに都市公園「金ヶ崎公園」として整備され、市民や観光客が気軽に訪れることができる場所となっている。尾根沿いには周遊園路が整備され、金崎宮から天筒山へと続くルートを歩きながら、城跡の地形や遺構を体感できる。
この地は昭和9年(1934)に国の史跡に指定され、南北朝の戦いの舞台として顕彰されてきた。明治26年(1893)には金崎宮が創建され、以後、桜の名所としても知られるようになり、「花換まつり」など地域行事の舞台ともなっている。
近年では、史跡としての価値と公園としての利用、さらに神社境内としての性格が重なり合う中で、それぞれの調和を図る取り組みが進められている。城郭遺構については赤色レーザー測量や踏査が実施され、堀切や平坦地の構造が再確認されるなど、学術的評価も進んでいる。
一方で、樹木の繁茂やイノシシ等による獣害といった保存上の課題も指摘されており、史跡の保護と活用を両立させるための管理方針が検討されている。多様な時代の痕跡が重層的に残る金ヶ崎城跡は、歴史・景観・信仰が交差する場として、今も整備と保存が続けられている。
参考文献:
- 『日本城郭大系11』(新人物往来社)
- 『史跡金ヶ崎城跡保存活用計画』(敦賀市教育委員会事務局文化振興課)
金ヶ崎城の撮影スポット・絶景ポイント
金ヶ崎城は海に突き出た岬の突端という立地を意識して捉えたい城で、尾根づたいに天筒山城へ登り見下ろすことで日本海に面した姿を俯瞰でき、天候が良ければ越前海岸まで望める。または、海に面した公園「金ヶ崎緑地」から海越しに撮るとそのロケーションがいっそう際立つ。春は桜が彩りを添える。
金ヶ崎城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、金ヶ崎城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
金ヶ崎城周辺グルメ・名物料理
「寿し 丸勘」寿司屋。市内中心。8号から一本入った裏通り。上寿司をどうぞ(田村靖典 2000)。
金ヶ崎城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:福井県敦賀市金ケ崎町
県別一覧:[福井県の城]
アクセス
鉄道利用
JR北陸本線、敦賀駅下車、徒歩30分。または、コミュニティーバス「金崎宮口」降車、徒歩5分。
マイカー利用
北陸自動車道敦賀ICから国道8号福井方面から敦賀トンネルを抜け最初の交差点を北上。神社を目指す。北陸自動車道敦賀ICから5分で着く。
金ヶ崎城:城ファンの知見と記録
金ヶ崎城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全3件)。
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金ヶ崎城跡(かながさきじょう)は、敦賀湾に突き出した海抜86mの山城。元亀元年(1570)の「金ヶ崎の戦い」織田信長の撤退戦で、秀吉と家康が殿軍を務めたことで知名度が高い。月見御殿跡(本丸)、曲輪、堀切などが残り、国の史跡に指定されている。
記録:shirofan 2020
神社とその裏手が金ヶ崎城である。郭、土塁のみのこる。
記録:田村靖典 2000
築城は、南北朝で、新田義貞が居城した。以後、朝倉氏の支城となり、織田方が朝倉攻めの折、浅井氏の寝返りで、ここから退却した。
記録:田村靖典 2000