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増山城の周辺史跡を訪ねて
長尾為景塚
長尾為景は、天分14年4月、増山城攻めで討ち死にしたといわれ、その墓と伝わる塚が砺波市頼成新にある。小字名を長尾塚。また、為景の父、長尾能景は永正3年9月、一向一揆と越中守護代神保氏が対決した「芹谷合戦」で討死。為景塚の東方180mの永田家屋敷にある塚が、能景塚と伝えられている。
また、城では、先に築城されたという増山城すぐ北側の「亀山城」。二重の空堀や長大な竪堀が残る。
増山城の観光情報・アクセス
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
増山城:城ファンたちの記憶
実際に増山城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全2件)。




南北朝時代、桃井氏の拠点の一つ。越後の長尾よしかげ、為影親子が神保氏のこの城を攻撃。天正9年佐々成正の居城となる。江戸時代は、前田氏の家臣中川光重の管理。元和の一国一城令で廃城。
( 田村靖典)
本丸、2の丸、空掘。松倉城、守山城とあわせて越中の三大山城と言われるがそのわりにたいしたことはない。
( 田村靖典)