箕輪城は永正年間頃に長野業尚が築いた西上州の拠点城で、永禄9年(1566)に武田信玄の攻撃で落城した。榛名山東南の丘陵に築かれ、大堀切や馬出を備える広大な平山城として発展した。現在は郭馬出西虎口門や本丸西虎口門などの復元整備が進み、遺構とともにその構造を体感できる。このページでは箕輪城の歴史や構造、見どころを紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
箕輪城の歴史・見どころ
箕輪城(みのわじょう)は、榛名山東南の低丘陵に築かれた城で、西上州支配の拠点として長野氏が本拠とした。長野氏は長野郷に起こる在地勢力で、永享12年(1440)の結城合戦にその名が見え、関東の戦乱の中で台頭していく。文明9年(1477)の長尾景春の乱では、長野為兼が戦死するなど、上杉氏との関係のもとで軍事行動に参加していた。
築城は長野業尚の代と伝わる。長野氏はもとは浜川に拠点を置いていたが、永正年間頃には箕輪へ移り、この地に城を構えたとされる。
大永7年(1527)、業尚の子・信業は弟とともに若海城を攻めるが、享禄3年(1530)に討死し、その後を継いだ長野業政が箕輪城主となった。業政は周辺諸氏と婚姻関係を結び、西上州の結束を図ったが、その支配は一揆的性格を色濃く残し、勢力は必ずしも強固なものではなかった。
天文22年(1553)、小幡重定父子が武田晴信(信玄)に従い、防衛網の一角が崩れると、箕輪城を取り巻く情勢は大きく変化する。永禄年間に入ると、和田氏や浦野氏など周辺勢力の離反が相次ぎ、武田勢は甘楽・多野方面を制圧していった。
永禄9年(1566)、武田信玄は大軍を率いて箕輪城を攻囲する。各地で激戦が展開され、城主長野業盛は籠城して抗戦したが、守兵は少なく持久戦は成立しなかった。同年9月29日、箕輪城は落城し、業盛は御前曲輪の持仏堂で自刃した。これにより長野氏は滅亡した。
その後、箕輪城は武田氏の支配下に入り、内藤昌豊が城主として西上州支配の拠点とした。天正10年(1582)の武田氏滅亡後は滝川一益が入城し、やがて北条氏の支配へと移る。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家らの軍勢により開城した。
関東入国後の徳川家康は、井伊直政を箕輪12万石に封じ、城の大規模な改修と城下町の整備を行わせた。しかし慶長3年(1598)、直政は高崎城へ移り、箕輪城は廃城となった。戦国の動乱から近世への移行の中で、箕輪城はその役割を終えることとなった。
箕輪城の特徴と構造
箕輪城は標高273.5m、比高約45mの丘陵上に築かれた平山城で、丘陵部と東北の新郭、西南の白川口郭をあわせて広大な城域を形成する。丘陵部は中央の大堀切によって南北に分断される一城別郭の構成で、大堀切は幅最大約20m、深さ15m以上に及ぶ城内最大の防御施設となっている。
本丸は約50m×100mの規模を持ち、北に御前曲輪が接続する。両者は同一の曲輪として機能し、城の中枢を構成していた。虎口は東南に開き、馬出を備えて防御が強化されている。二の丸は出撃拠点としての性格を持ち、搦手・寺口・追手へ通じる複数の虎口を備える。
本丸西側には深い堀を挟んで三の丸や通中郭が連なり、東側には帯郭や稲荷郭が配される。玉木郭には丸馬出が設けられるなど、戦国期特有の馬出構造が発達している。外郭には木俣と呼ばれる曲輪群や長大な腰郭が連続し、南側には水の手郭が配置される。
これらの構成は段階的な改修によって形成されたもので、北条氏や井伊直政期の整備の影響が認められる。
箕輪城の整備状況
箕輪城跡は長く大きな改変を受けずに残されてきたが、近年は発掘調査と整備が進み、往時の構造を体感できる環境が整えられている。昭和62年(1987)に国史跡に指定され、平成17年(2005)には日本百名城に選出された。広大な城域には散策路が設けられ、土塁や大堀切などの遺構を実地に確認できる。
平成28年(2016)には発掘成果をもとに「郭馬出西虎口門」が復元された。幅5.3m、高さ6.48mの二階建て櫓門で、戦国期の城門として関東最大級の規模を持ち、箕輪城を象徴する遺構となっている。
さらに令和4年(2022)には、本丸と蔵屋敷を結ぶ長さ28.9mの木橋が整備され、堀の規模と曲輪の連続性を体感できる動線が整えられた。
そして令和8年(2026)4月4日には「本丸西虎口門」が復元・公開された。平成15年(2003)の発掘調査で確認された礎石4個や石垣、石組暗渠などの遺構をもとに、近世初期の城門事例や絵図を参考に復元されたものである。桁行2.94mと本丸に存在する三つの門の中で最大規模を持ち、木橋を渡って出入りする唯一の構造から、本丸の重要な出入口であったことがうかがえる。現在は門扉が開放され、往時の動線を実際に体験できる。
三の丸では石垣の発掘も進み、北条氏期と井伊直政期の構築技術の違いが確認されている。今後も段階的な整備が進められ、箕輪城はその全体像をより明確に伝える史跡として整備が続けられている。
参考文献:
- 『日本城郭大系4』(新人物往来社)
- Webサイト「高崎市文化財情報」(高崎市)
箕輪城周辺の観光スポット・史跡めぐり
箕輪城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:群馬県高崎市箕郷町東明屋
県別一覧:[群馬県の城]
アクセス
鉄道利用
JR高崎駅西口から、群馬バス「箕郷行」箕郷本町降車、徒歩約20分。
マイカー利用
関越道、前橋ICから11km(約27分)。箕輪城の東側(搦手)に、整備された無料駐車場有り。トイレもある。搦手から城に入る方が暖勾配。また、城の西側にも3台ほどの駐車スペースがある。
地図
箕輪城周辺ホテル・宿泊情報
城址の周辺にはまったく宿泊施設らしいものはありません。高崎市内・前橋市内のホテルをお勧めします(イエローマン1998)。
箕輪城:城ファンの知見と記録
箕輪城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全9件)。
箕輪城でのひとときを、そっと記録に残す







郭馬出西虎口門が木造復元され、2016年11月23日から一般公開される。
記録:shirofan 2016
ほったらかしなんて記述がありますが、それは昔の話。現在では、ウッドチップが敷き詰められた散歩道が整備され、各所の案内看板も設置されて、素晴らしい保存状態になっています。2005年4月に行った際には、本丸付近での発掘作業をしていました。何しろ、戦国にあって大きい方に属するだろう城が、ほとんど全部、保存されているのですから、戦国の城が好きな人なら、一度は行くべき城です。ただし、構造物の類は、御前曲輪に井戸や石碑が、本丸に石碑があるっきりです。
記録:えるうっど 2005
馬出し郭で、戦国時代では関東最大規模の門跡が発掘されました。門は、矢倉のある2階建ての門で幅5.7m、奥行きが3.6mあったようで、門の大きさから見て箕輪城の大手門である可能性が出てきました。発掘現場の現地説明会が群馬県教育委員会で予定されています。
記録:ぱらたん 2003
築城は永享12年(1440年)、上毛(こうずけ)の猛将と言われた長野氏(業尚・業政親子)とされ、武田・上杉・北条など関東制圧に重要な地域に位置した城です。軍事的にも攻撃と防御に優れた縄張りが形成されており、慶長3年(1598年)に高崎に移転するまで幾多の攻撃にも持ちこたえた堅城です。歴史的には長野業政の時代がもっとも盛んな頃で、関東管領上杉氏に従う豪族であり、戦略的な婚姻関係を周辺の豪族と結びつつ、業政の死後には武田の猛攻と味方の衰退・裏切りにより、氏業(業政の嫡子)は篭城の末、一族共に御前曲輪にて自害してしまいます。徳川が関東を治めると同時に井伊直政が城主となり、大手門や搦手口など縄張りを変更・大改築し今に残る遺構の基となっています。新人物往来社「日本城郭大系」に掲載されてます。群馬の城址は山崎一氏がほとんど調査し、その記録の膨大なのには敬服しています。一見の価値は充分あります。郭馬出西虎口門は、平成28年11月23日から公開されています。
記録:イエローマン 2002
かなり大きな山城です。土塁や空堀などの遺構はかなり保存されていて特に「大堀切」は見ものです。また長野業正が死んだという井戸も残されています。のどかな場所にあり紅葉の季節などに訪ねると感慨もひとしおです。戦国時代長野信業によって築かれました。長野氏は箕輪城を中心に団結し、武田や北条から抵抗しつづけた。しかし、1566年2万5千の武田軍の前に落城しました。
記録:がんてつ 2001
たしか「箕輪城」とそのままの名前でお菓子(最中)が地元のお菓子屋さんで売っていた。
記録:イエローマン 1998
元々中世の軍事目的に築城したため、天守は実在しません。そのかわり、御前曲輪に続く本丸跡は広く、南北を両断する大堀切は圧巻です。形としては中世・平山城に位置づけられると思われますが、一城別郭式で主要部は北側、その他は大堀切を挟んで南側に幾つかの曲輪で形成されています。
記録:イエローマン 1998
二の丸が駐車場になっていて本丸までは整備されていますが、通にはまったく整備されていない隠れた登り口と整備の手が掛らないと倒壊寸前の遺構が数多く用意残っています。ただし、倒木や竹の根っこ、崩れかけた土塁、あるいはそこに生息する野ウサギとそれを狙う野良犬の群れにはくれぐれも注意して下さい。
記録:イエローマン 1998
地元の人でもめったに立ち寄らないのではないかと思いたくなるような、まったく手付かずのまま、ほったらかしにされているため、時々歴史に興味のある方々には絶賛されたり、けなされたり……。しかし、群馬県内では一番の城郭として、見所が沢山残っています。
記録:イエローマン 1998