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大多喜城の歴史と見どころ
戦国の名将・本多忠勝が天正18年(1590)に築いた大多喜城は、夷隅川の流れを生かした堅固な平山城だ。自然の谷と人工の堀を組み合わせた防備が特徴で、のちに譜代大名の居城として栄えた。現在の三層天守は昭和50年(1975)に再建され、房総の歴史を伝える博物館として親しまれている。
大多喜城の歴史
房総半島の山あいに築かれた大多喜城(おおたきじょう)は、戦国期の根古屋城を基礎に、天正18年(1590)に徳川家康の重臣・本多忠勝が十万石を拝領して整備した城である。忠勝は根古屋城の防備が時代に合わないとして、精細な城郭図を添えて家康に新築を願い出た。許可を得たのち築かれたのが、この大多喜城であった。
夷隅川と蟲川、置川に囲まれた丘陵を巧みに利用し、自然の要害に人工の堀や塁を組み合わせた堅固な構えをもつ。城の北西は九十九谷と呼ばれる急峻な谷が連なり、攻めるに難く守るに易い地形を成した。忠勝は水の手を重視し、二の丸・三の丸に計二十五の井戸を設けたと伝わる。こうして大多喜は房総における徳川方の最前拠点として機能した。
その後、忠勝の子・忠朝が継いで五万石の城主となり、のちに阿部氏や松平(大河内)氏ら譜代大名が藩政を担った。元禄期には幕府の命により城郭が簡素化され、天保13年(1842)には天守と御殿を焼失、再建後も小藩化に伴い規模は縮小した。明治4年(1871)の廃藩置県により廃城となり、建物はほとんどが取り壊された。
昭和48年(1973)、千葉県は本丸跡に博物館の建設を決定し、天保11年(1840)の絵図などをもとに三層四階の模擬天守が昭和50年(1975)に再建された。開館した建物は「県立中央博物館大多喜城分館」として房総の城郭資料を展示している。令和3年(2021)から、大規模改修工事を行い、5年後のリニューアルオープンを目指している。2025年現在、敷地内の研修館にて「房総の城と城下町」をテーマとした展示を行っている。
大多喜城の特徴と構造
大多喜城は標高73m前後の台地に築かれ、夷隅川の流れを天然の壕として取り込んだ平山城だ。東の平野部に向けては人工の外堀・内堀・空堀を三重に巡らし、本丸・二の丸・三の丸の三郭を区画した。堀の幅は約25m、深さ5mにおよび、城塁は本丸で約30m、二の丸・三の丸で15mを測ると伝わる。
本丸には三層の天守がそびえ、二の丸に御殿、三の丸には家臣屋敷や馬場、米倉が配された。大手門は二重櫓門による枡形構造をとり、進入路は屈折して本丸表門へ達する。九棟の櫓が配置されていた。現在、二の丸跡(県立大多喜高等学校)には、本多忠勝が掘らせたという周囲17m、深さ20mの大井戸や、二の丸御殿裏門から移築された薬医門が現存している。
参考文献:
- 『日本城郭大系6』(新人物往来社)
- 「上総大多喜城本丸跡 附 大井戸 薬医門1棟」千葉県Webサイト
大多喜城の周辺史跡を訪ねて
本多忠勝の菩提寺
大多喜城の南東にある良玄寺(りょうげんじ)は、本多忠勝の菩提寺として知られる。境内には忠勝の墓所が残り、静かな山裾の佇まいに往時の面影が漂う。忠勝が築いた城を望む地に眠るその墓碑は、徳川四天王の一人として名を馳せた武将の生涯を偲ばせ、今も地元の人々に大切に守られている。
渡辺家住宅
大多喜城の城下に残る渡辺家住宅は、嘉永2年(1849)に建てられた上層商家で、重要文化財となっている。屋号を「穀家」といい、大多喜藩の御用達商人として栄えた大通りに面する。土庇付きの店構えや格子戸が往時の姿を伝え、1階が店舗、2階が住居という町家形式を今に残す。内部は非公開だが、通りに面して立つ外観から、かつての商人町の賑わいと城下の生活文化を感じ取ることができる。
大多喜城の周辺おすすめ名物料理
最中十万石と郷土料理
大多喜の城下では、本多忠勝が十万石を拝領した故事にちなむ銘菓「最中十万石」が知られる。大正8年創業の老舗〈津知家〉がつくる最中で、香ばしい皮と上品な餡が評判だ。また、道の駅たけゆらの里おおたきでは、春の名産たけのこを使った郷土料理「たけのこ御膳」が味わえる。いずれも城下町の風情とともに、旅の一服にふさわしい味わいだ。
とんかつ亭有家(ありや)
大多喜駅近くにある人気の老舗とんかつ店。厳選された豚肉を使い、衣はサクサク、中はやわらかく揚げ上げた定食が評判だ。地元産の米や野菜を取り入れた手づくりの味わいで、観光客にも常連にも親しまれている。大多喜高校の卒業生にもすすめられた。
大多喜城観光のおすすめホテル
旅館「新川」天然サウナの地下洞窟風呂あり。同じ大多喜町内。ここまできたのだから養老温泉に一泊するという手も(hexe 98.04.24)。
大多喜城の観光情報・アクセス
所在地
住所:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 [MAP] 県別一覧[千葉県]
電話:0470-82-3007(千葉県立中央博物館大多喜城分館)
- 公式サイト:「千葉県立中央博物館大多喜城分館」(千葉県)
開館時間
中央博物館 大多喜城分館は、施設改修のため休館しているが、敷地内の「大多喜城分館 研修館」では、「大多喜城と城下町」をテーマとした展示が見られる。
9:00〜16:30(入館16:00まで)月曜・年末年始(12月28日~1月4日)休館。まれに臨時休館がある。昭和52年、古絵図を元に再興された千葉県立総南博物館。大多喜城と城下町の模型がある。
アクセス
鉄道利用
いすみ鉄道、大多喜駅下車、徒歩約10分。
マイカー利用
首都圏中央連絡自動車道、市原鶴舞ICから約17分(12.9km)。無料駐車場有り。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
大多喜城:城ファンたちの記憶
実際に大多喜城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全5件)。




見学順路に大多喜高校の構内が含まれていますが、平日でも気軽に見学できます。職員・生徒ともに田舎特有の親しさがあるので、もし体育の授業中だったりすると、高校生から挨拶されちゃうかも。
( 城好きの匿名希望)
外房線の大原から出てるいすみ鉄道は関東では有名なローカル線。春には菜の花の間を抜けてくレールバスに乗ってくとドラマのよう。春の渓谷から望む大多喜城と大多喜集落の景色は今も目に焼き付いています。いすみ鉄道は赤字廃線危機にありますがこの美しい路線を守ろうとする運動は近年メディアを騒がせています。
( PRADA)
大多喜城は本多忠勝が徳川家康が関東に入ったときにこの地で10万石をもらって入封したところで、里見氏に対する押さえとなった城のようです。房総半島の中心付近に位置している城で家康がこの城を重要視していたのではないかと思われます。というのも里見氏の押さえとして徳川四天王の一人である本多忠勝を配置しているのですから。
( にっしゃん)
城山のすぐ下に御禁止川(おとめがわ)という川があり、午後の陽光を集めて俯瞰で見る川はなんともよい風情です。この川は将軍家に献上する魚を獲る川ということで、禁漁となっていたようです。大原から夷隅鉄道で40分ほどの道程は長閑で鄙びた実によい場所です。大多喜周辺は小さな遊水池が多く、その中を単線の電車が走っているのですが、周囲の山がちな土地も含めて、昔日の風景が偲ばれます。特徴的な城下の道筋が見ものです。道は不自然に曲がり、真っ直ぐな道さえ鉤の手に断たれています。どこまでも実戦を想定しているのは、関東に入部した当初の徳川氏の立場を伝えるようでもあります。
( haru)
本多忠勝の居城、大多喜城は小高い山の上。この城山に立つと大多喜市が一望できる。 白亜の天守は残念ながらコンクリート造り。千葉県立総南博物館になっている。本当の本丸は今は大多喜高校の運動場になり片隅には大きな井戸の跡があり当時の面影を残している。
( hexe)