写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
館林城の歴史と見どころ
館林城(たてばやしじょう)は、城沼の西岸から狐の尾のように突き出した半島状の台地に築かれた平城である。周囲を水に囲まれた自然の要害を生かし、戦国から江戸へと変わる時代を通して上野東部の政治・軍事の拠点となった。弘治2年(1556)、赤井照康(照光)がこの地に居館を構え、城として整えたと伝わる。照康は「霊狐の導き」により縄張りを定めたとされ、狐が尾を曳いてその形を示したという伝承が残る。城内にはその縁で尾曳稲荷が祀られている。
永禄3年(1560)、上杉政虎(のちの謙信)が関東に進出した際、赤井氏がこれに従わず、永禄5年(1562)正月、政虎が館林城を攻め落として長尾顕長を城主とした。その後、北条・上杉・武田の勢力が交錯するなかで支配は幾度も移り、顕長が北条氏に屈したのち、永禄13年(1570)2月には一時、広田直繁が謙信から館林領を与えられたが、その年の10月(元亀元年)には長尾顕長が城主に復帰した。天正12年(1584)、長尾顕長と兄国繁が北条氏に抑留され、茂林寺住持の斡旋により館林城が明け渡され、北条氏規が城主となった。
天正18年(1590)5月、石田三成率いる豊臣軍が城を包囲。三成は城沼に丸太を投じて攻撃路を築こうとしたが、夜明けには水底に沈んだと伝わる。降将北条氏勝の説得により、5月30日早朝に開城した。
関ヶ原の合戦の後、徳川家康は榊原康政を10万石で封じ、長尾時代に未完成だった城下町を完成させた。康政が移封された後、番城時代や大給松平時代を経て、寛文元年(1661)8月には徳川綱吉が25万石で入城し、城は最盛期を迎えた。綱吉の子・徳松が夭折すると、綱吉は城を徹底的に破却させた。その後、25年間の代官支配を経て、宝永4年(1707)に松平清武が再築を開始し、14年後の享保6年(1721)3月に完成入部した。
明治4年(1871)の廃藩置県後、明治7年(1874)の大火で城内の建物はほとんど焼失した。昭和54年(1979)に「館林城跡」が市指定史跡となり、翌年の昭和55年(1980)には三の丸南端に土橋門が復元された。現在も三の丸には土塁が残り、城沼とともに往時の面影を伝えている。
館林城の特徴と構造
館林城は、城沼に突き出した台地を中心に築かれた平城で、規模は南北約1.3km、東西約1kmに及ぶ大規模構成であった。湖沼を防御に生かした水城の典型とされ、その築城様式は東武州系に分類される。本丸・八幡郭・南郭・二の丸・三の丸が半島部に並び、入江を隔てた北に尾曳郭があり、これを囲んで外郭、さらに北に総郭、最北端に加法師郭が付く構造であった。
本丸(約180m×50m)には櫓造りの本丸門と東の二重櫓があり、綱吉時代には三重の天守が建っていた。三の丸(約250m×200m)は堀をめぐらし、西北に二重櫓、北面に千貫門を備えていた。八幡郭には城沼に通じる水門があった。総郭(約1.3km×0.5km)は主に武家屋敷地として整備され、加法師郭(約800m×400m)は下級武士の居住区であった。
現在は三の丸に土塁が残り、昭和期に復元された土橋門とともに往時の縄張りを偲ぶことができる。近年あらかたの堀が埋められたものの、城沼を要害とした地形は今もその姿を留めている。
参考文献:
- 『日本城郭大系4』(新人物往来社)
- 『第2章 館林市の現況・特徴』PDF(2024館林市)
館林城の撮影スポット
館林城の復元門「土橋門」は北向きのため、撮影は光がよくまわる曇天を狙いたい。
館林城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、館林城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。館林城の周辺史跡を訪ねて
館林駅の浅草方面の一個先の駅の茂林寺前駅から徒歩5分の茂林寺。分福茶釜の童話のお寺。また、城から城沼沿いに20分歩くと善導寺があり、そこには榊原康政とその側室お辻の墓がある。戦国時代マニアは絶対に訪れるべし。そのほか武家屋敷では旧館林藩士住宅(曽根充年 10.01.07)。
館林城の周辺おすすめ名物料理
市役所から南へ徒歩15分の「とんかつ福よし」が有名。そのふきんには「平野屋」という蕎麦屋があり、そこのラーメンもおいしい(曽根充年 10.01.07)。
館林城観光のおすすめホテル
駅近くのミヤコホテルが無難かも(曽根充年 10.01.07)。
館林城の観光情報・アクセス
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
館林城:城ファンたちの記憶
実際に館林城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全6件)。




最近、5代将軍綱吉が城主だった頃の館林城の絵図「上野国館林御城図」が館林市に寄贈され、第一資料館で展示されている。25万石の風格にふさわしい八間x七間の三重櫓があったことなど詳しい確かな情報が記されていて一見の価値あり。
( hope)
館林城は綱吉時代は25万石の総構えの城でしたが、市内、朝日町や第一中学校周辺に掘を見ることが出来ます。最近、館林城再建の機運がたかまっているようで、「館林城の再建をめざす会」を見ると在りし日の館林城のすがたをみることができます。かなりよく出来たサイトです。
( 城好きの匿名希望)
館林文化会館近くに土橋門の復元門があり、その脇に井戸が残っている。市役所のある場所が二の丸、東側に本丸、南に三の丸があった。その付近を回ると遺構が少し残っている程度。そこよりも市役所の北東に尾曳稲荷神社があるが、館林城の祖、赤井氏が築城した場所で、もともとはそちらを立林城と呼んでいた(尾曳城とも)。そちらの方が土塁などの遺構がはっきり見られる。現在館林城と呼ばれているのは榊原康政の移築した城の方を指します。
( 曽根充年)
赤井照光という豪族が、子狐を助け、その後狐が照光を城沼のほとりに案内して築城したのが館林城の起こりと言われている。後徳川家康が関東入封の際、奥州の守りとして榊原康政に10万石を与え入場させたのが館林藩の起こり。その後、徳川綱吉が城主を勤めた時期もあった。その頃は甲府徳川家と並んで館林徳川家といわれていた。明治初期火災によって消失するまで残っていた。
( 曽根充年)
復元された土橋門は、地元では「黒門」と呼ばれているそうです。
( ばっちこーい)
綱吉時代の城図が出て、本丸御三階櫓のある。
( nijyojyo)