五箇篠山城は南北朝時代に初見が見える山城で、北畠氏の被官や在地領主の拠点となった。梅田川と朝柄川に挟まれた独立丘陵に築かれ、尾根を堀切で区切る縄張が特徴だ。現在も郭や土塁、堀切が良好に残り、山城の構造を体感できる。このページでは五箇篠山城の歴史と構造を豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
五箇篠山城の歴史・見どころ
五箇篠山城(ごかささやまじょう)は、南から東へと蛇行する梅田川を見下ろし、その支流朝柄川に挟まれた独立丘陵上に築かれた山城だ。文献上の初見は南北朝時代にさかのぼり、康永2年(1343)に伊勢守護仁木義長による攻撃を受けたことが記録されている。前年には田丸城・坂内城が相次いで落城しており、五箇篠山城もまた同様の運命をたどったと考えられる。この頃には「五ヶ城」と呼ばれ、すでに地域の拠点として機能していたことがうかがえる。
その後の動向は史料が乏しく明らかでないが、北畠氏の被官である五箇景雅などの五箇氏がこの地に拠った在地領主であったとみられる。文明5年(1473)頃には五箇氏が北畠氏に背いたとして誅伐され、代わって野呂氏が入ったと伝えられる。『三国地誌』によれば、野呂越前守・伊予守が居城し、その後は安保氏がこれに替わったとされるが、いずれの時期においても城の詳細な様相は伝わらない。自治体資料によれば、天正の合戦以前、城自体は長く放棄され古城の状態であったと考えられる。
やがて戦国末期に至り、この城は再び歴史の表舞台に現れる。天正4年(1576)、織田信長によって北畠具教が三瀬館で誅され北畠氏は滅亡したが、具教の弟具親は僧籍から還俗し、旧臣とともに再興を図った。天正10年(1582)の本能寺の変に際し、具親は安保氏らと呼応して挙兵し、周辺に放火したのち五箇篠山城に籠城した。このときの戦闘は『勢州軍記』や『勢陽雑記』、さらに書状類にも記録が残り、激しい攻防であったことが知られる。
しかしこの籠城は長くは続かなかった。天正10年の冬に伊勢に入った具親は、天正11年(1583)正月、織田信雄軍の攻撃を受け、わずか二日ほどの戦闘で落城したと伝わる。具親は伊賀へ敗走し、北畠氏再興の試みはここに潰えた。この戦いを最後に、五箇篠山城は再び歴史の記録から姿を消すこととなる。短期間の籠城戦でありながら、急造の防備を整え合戦に臨んだ様子は、戦国末期の緊迫した情勢を今に伝えている。
五箇篠山城の特徴と構造
五箇篠山城は、標高約137m、比高約68mの独立丘陵上に築かれた山城で、規模は東西約180m・南北約60mを測る。梅田川本流と朝柄川に挟まれた地形を活かし、周囲は急峻な斜面に守られている。主郭部は東西に延びる尾根上にあり、複数の堀切によって区切られた四つの台状地から構成される。
西端の郭は約50m×30mと最も広く、コの字形に土塁が巡らされ、主郭に相当する。虎口には小規模ながら枡形が設けられ、一部には石塁も確認される。これらの防備は、時代背景から北畠具親の籠城に際して整備されたことが明らかとなっている。その他の郭も整形された方形で、側面には高さ5mに達する切岸が築かれ、全体として堅固な防御構造を備えている。また、尾根筋の郭群の外側には帯郭が巡り、攻撃を段階的に防ぐ構えとなっている。
中腹には顕著な防御施設は見られず、急斜面そのものを防壁として利用している点が特徴的である。対岸の標高266mの高所にはひよどり城が築かれ、周辺の山城群と連携した防衛網の一角を担っていたことがうかがえる。自然地形を巧みに取り込みつつ、必要最小限の人工的防備を施した構造は、戦国期山城の典型例といえる。




五箇篠山城の整備状況
近世以降、五箇篠山城は廃城となり、長く山林の中に埋もれていたが、郭や堀切、土塁といった遺構は良好に残されている。とくに尾根上の郭配置や堀切の連続は明瞭で、往時の縄張を現在でもたどることができる。
近年では三重県により史跡としての価値が再評価され、遺構の保存と活用が進められている。丘陵頂部を中心に遊歩道が整備され、比較的容易に主郭部へ到達できるようになった。現地では郭や堀切の形状を実地に確認でき、山城の規模や防御の工夫を体感することができる。保存状態は県内でも屈指の良好な部類に入り、自然地形と一体となった山城の姿を今に伝える貴重な史跡だ。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
- Webサイト「自然地形を巧みに利用-五箇篠山城の攻防」(三重県環境生活部文化振興課)
五箇篠山城の撮影スポット・絶景ポイント
五箇篠山城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、五箇篠山城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
五箇篠山城周辺の観光スポット・史跡めぐり
五箇篠山城周辺グルメ・名物料理
「長五郎」日本料理。城から車で約5分ほど。多分べらぼうに高いので時価の物はやめ、豚カツなど値段の分かる物を。量は多い。また「ふれあいの館」でも買えるが、城の近くの「大西屋」の「ときび餅」は有名で美味しいと評判だ(加納 覚 1999)
五箇篠山城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:三重県多気郡多気町朝柄 [地図を見る]
県別一覧:[三重県の城]
電話:0598-38-1117(多気町)
アクセス
鉄道利用
JR多気駅下車、多気町営バス36分「朝柄口」下車、徒歩6分で多気町立勢和図書館。その前に登山口がある。
マイカー利用
紀勢自動車道、勢和多気ICから約8分(5.5km)。多気町立勢和図書館を目指す。無料駐車場あり。
地図
五箇篠山城周辺ホテル・宿泊情報
五箇篠山城から約10分。丹生地区の「勢山荘」。問い合わせは「ふれあいの館」に(加納 覚 1999)。
五箇篠山城:城ファンの知見と記録
五箇篠山城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全2件)。
五箇篠山城でのひとときを、そっと記録に残す





文徳天皇の後裔野呂氏が上野国から移って築城。野呂氏は、代々国司の北畠家に仕えたが、永禄12年(1569年)、織田信長の伊勢侵攻により戦死。替わって、北畠重臣の安保氏が城主に。北畠具教が謀殺された時(1577年)と本能寺の変で信長が倒れた時(1582年)、北畠再興を図る北畠具親が2度のろしを上げた城である。2度とも失敗。
記録:加納 覚 1999
五箇篠山城は、山城(砦)である。現在は、芝生広場やふるさと交流館等からなる「ゆとりの丘」の散策路である。
記録:加納 覚 1999