霧山城は、康永元年(1342)に北畠顕能が多気に築いた山城で、北畠氏館の詰城だ。標高約560mの尾根上に曲輪や堀切を配した要害の構えを持つ。現在も土塁や郭が良好に残り、多気盆地を見渡す景観が広がる。このページではその歴史と構造、見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
霧山城の歴史・見どころ
霧山城(きりやまじょう)は、北畠氏館跡の背後から西北の尾根づたいに登った標高約560mの山頂部に築かれた山城で、北畠氏館の詰の城にあたる。別名を「多気城」「多気御所」とも呼ばれる。
康永元年(1342)、北朝方の攻撃によって田丸城が陥落すると、三男・顕能はすでに暦応元年・延元3年(1338)に伊勢国司に任ぜられており、平野部を去って雲出川上流域の山峡、多気の地に移った。顕能はここに霧山城を築き、山麓に居館を構えた。以後、顕泰・満雅・教具・政郷・材親・晴具・具教と続く北畠家八代、約240年にわたる本拠の詰城として機能することになる。
南北朝期を通じて北畠氏は南朝方として戦い続けた。明徳3年・元中9年(1392)に南北朝が合体した後も、北畠氏は南朝復活を諦めなかった。応永21年(1414)、後亀山天皇の孫・小倉宮が伊勢に下り、三代・満雅を頼って南朝再興を図った。満雅は小倉宮を奉じて松阪市阿坂城に挙兵した。北朝方は土岐氏を大将に近江六角氏・伊賀仁木氏・長野氏・林院氏らの大軍を差し向けたが、北畠方は白米で馬を洗い水の豊かさを見せかけて敵を欺いたという逸話が伝わるように守りは堅く、城を落とすことができなかった。
その14年後、正長元年(1428)、称光天皇崩御の際に北朝方の後花園天皇が即位すると、再び小倉宮が伊勢に下り満雅を頼ったが、今度は満雅が仁木・一色・長野氏らと津市岩田川で合戦して討死した。南朝復興の望みはここで潰え、北畠氏も力を弱めて足利幕府の勢力下に入り守護大名化していった。
戦国期に入ると、永禄12年(1569)、織田信長が具教の居城、大河内城を包囲した。具教は降らず、結局、信長は次男・信雄を北畠家の養子とすることで家を乗っ取った。具教は多気郡大台町の三瀬館に隠れて信雄を攻めようとしたが、逆に信雄が旧家臣に命じて具教を暗殺させた。天正4年(1576)のことだった。それと同時に多気の城下は大軍に白口峠・桜峠から突破されて焼き払われ、城代も討死して霧山城は廃城となった。
なお、具教の弟は興福寺の僧侶だったが、北畠家滅亡を聞いて還俗し具親と名のった。天正5年(1577)に飯高町森城に兵を挙げたが失敗し、天正10年(1582)には本能寺の変に乗じて勢和村の五箇篠山城に拠ったが戦利なく逃亡した。ここに名門北畠家はここに滅亡した。
霧山城の特徴と構造
霧山城は標高約560mの山頂に築かれた山城で、南北に急峻な斜面をもち、東西に細長く延びる尾根上に曲輪が配置される。規模は約150m×270m、比高は約240mだ。
主郭は西側に位置し、東側の郭より一段高く設けられ、四方に土塁が巡る。両郭の間には堀切が設けられ、尾根伝いの侵入を遮断する構造だ。さらに南東約200mの山頂には鐘撞堂跡と呼ばれる小規模な台状地があり、連絡・監視の拠点として機能したとみられる。縄張りは堀切と土塁を主体とする中世山城の典型的な姿だが、山麓の各峠口(杉峠・道路越・赤坂峠・飼坂峠・白口峠など)に関所・監視所を置いて多気盆地全体を外郭とする発想は、城というより一つの「要害の国」を作り上げようとしたかのようだ。東方には多気盆地を眼下に一望し、西方には伊賀・大和方面の山並みを望む眺望は、軍事的な監視機能と同時に北畠氏の支配圏を象徴するものでもあった。




霧山城の整備状況
霧山城跡は館跡とともに昭和11年(1936)に国の史跡・名勝に指定されており、主郭・副郭の土塁や堀切などの遺構が良好に残る。現在は登山道が整備され、館跡から詰城を経て霧山城山頂へと至る遺跡群として一体的に見学できる。多気盆地を見下ろす雄大な眺望とともに、北畠氏が築いた重層的な防御の構造を自らの足で体感できる史跡だ。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
- パンフレット『北畠氏館跡ガイド』(津市)
- Webサイト「多気北畠氏遺跡の概要」(津市)
霧山城の撮影スポット・絶景ポイント
霧山城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、霧山城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
霧山城周辺の観光スポット・史跡めぐり
霧山城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:三重県津市美杉町下多気 [地図を見る]
県別一覧:[三重県の城]
電話:059-275-0615(北畠神社)
電話:059-229-3251(津市役所教育委員会事務局)
アクセス
鉄道利用
JR名松線、伊勢竹原駅下車、市営バス「丹生俣」行き約40分「北畠神社前」下車。
マイカー利用
伊勢自動車道、勢和多気ICから国道368号線で約40分(28km)。北畠神社に無料駐車場有り。北畠神社南端より登山約40分で霧山城。
地図
霧山城:城ファンの知見と記録
霧山城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全4件)。
霧山城でのひとときを、そっと記録に残す







阿坂城であった人から進められるままに攻城。登山口は歴史資料館(1,600m)・北畠神社(1,300m)、比津峠(500m)の3箇所あるが時間がもったいないので急ではあるが距離の短い比津峠から攻め入る。確かに急ではあったが距離が短いので苦にはならない。急坂を登り切ると、いきなり城域となる。本丸跡は、矢倉跡と違って周囲を土塁で固めていました。眺望は山ばかりで見通しがきかないけど、守りに支障がなかったんだろうか。
記録:ナベ 2003
麓から本丸まで1340m。結構長い距離を登る事になります。ちなみに比津峠から登ると、矢倉跡までの遊歩道が500mと短いですが、かなり急な山道の様です(そのかわり、更に細い道を運転しなくてはいけない羽目になる)。登っている途中、あと610mなんて看板がありましたが、最初はどれ位の距離か知らずに登ったので、これだけ登ってもまだ610mもあるの~?と思いながら、ひたすら登山。やっと鐘突堂跡右手、本丸左手の看板が。南側に離れて鐘突堂跡が、そこから本丸へ峰をアップダウンして行き、本丸の南西に米倉跡、北東に矢倉跡がありました。
記録:尾張ちえぞー 2002
村のほぼ中央に位置する霧山城には、登城口がたくさんありそうですが、道の駅美杉で仕入れた地図により最短距離の比津峠からの道を選択しました。登城口につくと「この登城路は距離は短いですが、かなり急です」との注意書きが。しかし、雨も強くなってきたので、ここより強行。たしかに急でしたが、整備されているので、長野城に比べればちょろいもんです。いっきに主郭付近にでると、こんどは霧が。さすが霧山城。そのときガサガサっと音がしたかと思うと目の前をおおきな動物が飛び出して逃げていきました。姿を追うと大きな鹿です。鹿もまさか雨の中、人に会うとは思っていなかったろうなぁ。大きな体に似合わない身軽な動きで、見事な堀切を簡単に飛び越えて逃げていきました。遺構は良好で、さすがに北畠氏の本城であることを感じさせてくれます。
記録:長江@武蔵国 2002
霧山城は標高570mの山城で気合いを入れてからでないと登れません。山の入口に杖が置いてあるので活用したほうがいいですよ。本丸跡には何もないのですが頂上からの眺めは遠くまで山並が続き綺麗です。
記録:hagibon 1999