北畠氏館(多気北畠氏城館跡)は、康永元年(1342)に北畠顕能が多気へ拠点を移して築いた居館だ。多気盆地中央の山麓に位置し、背後に詰城と霧山城を配する構造を持つ。庭園や出土遺物が残り、往時の文化と権威を今に伝える。このページではその歴史と構造、見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
北畠氏館の歴史・見どころ
北畠氏館(きたばたけしやかた)は、三重県津市美杉町多気の多気盆地中央山麓に営まれた、伊勢国司北畠氏の居館だ。自治体表記では「多気北畠氏城館跡」といい、現在の北畠神社境内一帯がその跡にあたる。
北畠氏はその源を村上天皇に発する村上源氏の名門で、もともと京都の北畠に居住し朝廷に仕えた公家だった。祖・親房は従一位に叙せられ、南朝の重臣として天皇に奉侍していた。延元元年(1336)、後醍醐天皇が吉野山に遷幸すると、親房は京都から南伊勢に下り、田丸城を本拠に、外宮の禰宜・度会氏をはじめ愛洲・潮田・古和・本本ら伊勢の諸土豪を統率した。伊勢神宮のひざもとを押さえ、東国への海路の要所を掌握し、南伊勢平野の物資を集中させることで、吉野南朝の東方基盤を築いていたのだ。
しかし北朝方の足利勢はしばしば田丸城を攻撃し、康永元年(1342)についに城は陥落した。三男・顕能は平野部を去り、雲出川上流域の山峡、多気の地へと退いた。顕能はすでに暦応元年・延元3年(1338)に伊勢国司に任ぜられており、多気に移ってここに館と詰の城でる霧山城を築いたのである。
多気は吉野へ約60km、伊勢神宮へ約40km、いずれも強行一日の行程という絶好の位置にあった。四方を険しい山々に囲まれた小盆地で、どの方向からも高い峠を越えなければ入れない。各峠口や隘路に関所・監視所を設けて外郭とし、村里全体が一大城郭の様相を呈していた。まさに要害の地といえる。
以後、顕能から顕泰・満雅・教具・政郷・材親・晴具・具教と続く北畠家八代、約240年にわたってここが本拠地となった。北畠氏の勢力は南伊勢五郡(一志・飯南・飯野・多気・度会)を中心に、西は伊賀南半から大和宇陀郡、南は志摩・奥熊野にまで及んだとされ、軍兵一万五千余を擁する一大勢力だった。
明徳3年(1392)に南北朝が合体した後も、北畠氏は南朝復活を諦めなかった。応永21年(1414)、後亀山天皇の孫・小倉宮が伊勢に下り、三代・満雅を頼って南朝再興を図った。満雅は小倉宮を奉じて阿坂城に挙兵した。北朝方は土岐氏を大将に近江六角氏・伊賀仁木氏・長野氏・林院氏らの大軍を差し向けたが、北畠方は白米で馬を洗い水の豊かさを見せかけて敵を欺いたという逸話が伝わるように守りは堅く、城を落とすことができなかった。しかしその14年後、正長元年(1428)には後花園天皇の即位に不満を持った小倉宮が再び満雅を頼り、満雅が仁木・一色・長野氏らと津市岩田川で合戦して討死した。南朝復興の望みはここで潰え、北畠氏も力を弱めて足利幕府の勢力下に入り守護大名化していった。
16世紀初頭(永正18年・1521年頃)には大規模な造成が行われ、庭園もこの頃に整備された。これは室町幕府管領の細川高国が、娘の嫁ぎ先である北畠晴具を頼って滞在した折の設計(または作庭)と伝えられている。都から遠く離れた山峡の地に京都や大和・尾張・美濃の文化と物資が流入し、多気は文化都市的な色彩を帯びていたという。
永禄12年(1569)、織田信長が当主・具教の居城である大河内城を包囲した。具教は譲らず戦い続けたが、結局、信長は次男・信雄を北畠家の養子とすることで家を乗っ取ってしまった。具教は憤り、多気郡大台町三瀬館に隠れて信雄打倒を企てたが、逆に信雄が旧北畠家臣に命じて具教を暗殺させた。天正4年(1576)のことだった。それと同時に多気の城下も大軍に白口峠・桜峠から突破されて焼き払われ、城代も討死して館もここに廃された。
北畠氏館の特徴と構造
北畠氏館は、多気盆地中央の山麓、現在の北畠神社境内を中心とする南北約200m・東西約100mの範囲に築かれた居館だ。西を山裾に接し、他の三方を川に囲まれる立地で、背後の尾根上に詰城、さらに奥の山上に霧山城を配する、館・詰城・山城という三層の防御構成をとっていた。
館は16世紀初頭に大規模な造成が行われ、前期・後期の二段階に分かれる。前期は建物や石垣が整然とした方位で配置され、後期には現在に近い地形となり、南部に庭園が整備された。この造成じたいが、北畠氏が戦国大名へと飛躍する時期と重なる一大事業だった。
館が興味深いのは、その二面性だ。一方では北畠氏という組織の政庁という公的施設であり、他方では当主一族の私的な居住空間でもあった。出土した中国産の青磁・白磁は相当な経済力を示し、京都系のかわらけが三重県内でまとまって出土する唯一の遺跡であることは、都の文化が深くこの地に根付いていたことを物語る。石垣も防御のためというより館の格式を示すものであり、北畠氏の居館は武力よりも権威と文化を前面に押し出した空間だったといえる。





北畠氏館の整備状況
館跡には建物の遺構は残らないが、東南隅の庭園が良好に保存されており、霧山城跡とともに昭和11年(1936)に国の史跡・名勝に指定されている。枯山水と池庭からなる庭園は「日本三大武将庭園」の一つに数えられ、室町期の作庭技術を今に伝える代表的な名園だ。
現在は北畠神社の境内として維持管理され、庭園は一般公開されている。津市はガイドパンフレットを作成・配布し、発掘調査の成果とあわせて遺跡の周知を図っている。庭園と出土遺物を通じて北畠氏の文化的水準を体感できる史跡として、来訪者を迎えている。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
- パンフレット『北畠氏館跡ガイド』(津市)
- Webサイト「多気北畠氏遺跡の概要」(津市)
北畠氏館の撮影スポット・絶景ポイント
北畠氏館跡庭園は、新緑と紅葉の季節にひときわ美しい表情を見せる。紅葉は深紅ではなく、やわらかな黄葉に染まるのが特徴だ。曇天や午後の光のなかでは、石組や苔、池の水面の質感が静かに際立つ。山影に入り光がやわらかく回る午後の撮影が適している。見頃は北畠神社の紅葉よりやや遅く、冒頭写真は11月下旬に撮影したものだ。公式SNSなどで色づきの進み具合を確かめて訪れたい。
北畠氏館の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、北畠氏館の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
北畠氏館周辺の観光スポット・史跡めぐり
六田館跡
六田館跡(東御所跡)は、北畠神社から八手俣川を挟んだ対岸の北にある。台地と堀跡が確認できる。
美杉ふるさと資料館
北畠氏の資料や発掘成果のほか、美杉町の歴史や文化財を紹介している。少しデフォルメされているが北畠氏館想像復元模型なども展示されている。
北畠氏館から広がる城めぐり
北畠氏の城と館
南伊勢に刻まれた北畠氏の栄枯盛衰を、城と館から辿る。
北畠氏館アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:三重県津市美杉町上多気1148 [地図を見る]
県別一覧:[三重県の城]
電話:059-275-0615(北畠神社)
電話:059-229-3251(津市役所教育委員会事務局)
アクセス
鉄道利用
JR名松線、伊勢竹原駅下車、市営バス「丹生俣」行き約40分「北畠神社前」下車。
マイカー利用
伊勢自動車道、勢和多気ICから国道368号線で約40分(28km)。北畠神社に無料駐車場有り。
地図
北畠氏館:城ファンの知見と記録
北畠氏館を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全4件)。
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三重県美杉村の北畠氏館跡第11次調査の発掘調査現地説明会が行われました。今回の調査は館内の中心部分のやや北(北畠神社境内)の調査で、大窯第1段階の時期(瀬戸美濃藤澤編年では15世紀末から16世紀前葉)に廃絶したと考えられる礎石建物が見つかっています。『大乗院寺社雑事記』には明応8年(1499)に北畠氏の館が火事にあったという記事があり、今回の礎石建物はその火事で廃絶した可能性があります(検出面に炭化物が一様に見られる、雨落溝の埋土に炭化物が多くあるなど状況証拠もあり)。
記録:箕浦 2003
現在の北畠神社が館跡で、境内に庭園が残されている。入園料300円。説明版によると、平成9年の発掘調査では中世館としては日本最古の石垣が発見されたとのことでした。境内中央に北畠顕家の銅像が建っています。
記録:ナベ 2003
北畠氏の本拠へ。戦国よりも南北朝の臭いがただよってきます。まずはふるさと資料館へ。ここは、必ず訪れましょう。北畠氏の情報満載です。多気御所は北畠神社となり、国の史跡にも指定されている庭園が有名です。三大武将庭園のひとつでもあり、素朴でありながら豪放な感じがすばらしいです。入園には神社の社務所で300円かかりますが、ポストカードつきです。
記録:長江@武蔵国 2002
三杉村に入ってすぐに三杉ふるさと資料館があり、北畠氏ゆかりの古文書などが展示してあります。近くに北畠氏館跡庭園があり苔むした築山、枯山水が見事でとても素晴らしい所です。館跡の横に北畠神社(花将軍の銅像あり)がありその裏が霧山城です。
記録:hagibon 1999