佐土原城

佐土原城の歴史

鎌倉時代初期、源頼朝の側近であった工藤祐経は1190(建久元)年、日向国の地頭職を授けられた。祐経が曽我兄弟の仇討ちで討たれると、嫡男の伊東祐時が家督を継ぐ。祐時の4男、祐明は田島荘(現・宮崎市佐土原町)に下向。以後、田島氏を称した。佐土原城はこの頃、田島氏一族の田島休助(休祐)という者が築き、当時は田島城と呼ばれたといわれる。

日向伊東氏中興の祖と言われる伊東祐尭(すけたか)は、日向国内で勢力を伸ばしていた。この頃、祐尭の弟である祐賀(すけよし)が休助に婿入りをするも、自身は佐土原氏を名乗り、城は佐土原城と呼ばれるようになった。なお、田島一族は放逐されたという。

祐尭の子、祐国は1480(文明12)年に佐土原を宛てがわれており、この頃から伊東本家の重要拠点となっていった。祐国の孫で内訌を経て当主となった義祐は1536(天文5)年、本城の都於郡城が火災を起こしたため佐土原城に移った(その後、佐土原城も火事に遭ったため義祐は宮崎城に再移動している)。義祐は日向国内に勢力を広げ、伊東氏48城と呼ばれる外城ネットワークを構築したが、都於郡城、宮崎城と並んで佐土原城も、その中心をなしていた。

1572(元亀3)年、木崎原の戦い(えびの市)で義祐の派遣した軍勢が大敗すると、伊東氏は次第に勢力を失っていく。1577(天正5)年、義祐は日向を捨て、豊後の大友宗麟を頼って落ち延びた(豊後落ち)。その後は島津氏が支配するところとなり、1584(天正12)年には島津4兄弟の末弟、家久が入城した。1586(天正14)年から始まった豊臣秀吉による九州平定戦において、降伏した家久は直後に死去してしまう。豊臣秀長による毒殺も疑われているが、嫡男の豊久が都於郡・佐土原の領地を安堵され佐土原城主となった。

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで豊久が討死にしたため、佐土原は徳川氏の預かるところとなるが1608(慶長8)年、垂水島津氏の以久(ゆきひさ・もちひさ)が3万石で佐土原藩主となり、明治まで続いた。2代藩主忠興は幕府の許可を得て、山上にあった政庁を現在「宮崎市佐土原歴史資料館・鶴松館」のある二の丸に移している。最後の藩主忠寛は、版籍奉還後に知藩事の政庁を佐土原から広瀬に移すことを決め、明治政府の許しを得て広瀬城の築城をはじめ、佐土原城は破棄された。しかし、1871(明治4)年の廃藩置県によって広瀬城築城も中止となっている。

1993(平成5)年、発掘調査を元にした二の丸御殿(復興)が造られた。2004(平成16)年には、国指定史跡となった。

佐土原城

佐土原城の構造

現在の山城部分の遺構は、2代藩主忠興の頃のものとされる。本丸、南ノ城、松尾丸と呼ばれる大きな曲輪を中心に、それらを囲む小規模の曲輪や、空堀やそれを利用した登城道があった。一部の曲輪には桝形虎口の跡が残っている。

本丸の北側には櫓台(天守台)がある。1810(文化7)年ごろに佐土原藩が作成した、「旧事集書(くじあつめがき)」には天守の記載があり、「天正年中佐土原城図」では3層の櫓が描かれているが、以前の研究では南九州(宮崎県・鹿児島県)に天守を持つ城はなかったとされていた。ところが、1997(平成9)年の調査で、鬼瓦や金箔鯱瓦が見つかり、日本最南端の天守の存在が有力となっている。

(文=mario 写真=岡 泰行)

佐土原城天守台

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