写真:岡 泰行
松前城の歴史と見どころ
松前城(別称、福山城)は、渡島半島の南西部にあり、いわゆる日本式の城郭としては、最後に築城された城で、最も北に位置している。嘉永2年(1849)、日本近海に頻繁に現れるようになった異国船への備えとして、幕府から松前藩に対し築城の命令が出され、それまで藩主の居館だった福山館(ふくやまだて)を取り壊し築かれた。縄張りは当時の三大兵学者のひとり高崎藩の市川一学が担当し、安政元年(1854)に完成をみる。
破風のない簡素な三階櫓の天守を中心とした、こぢんまりとした構えに見えるが、海に面した天守側内壁には厚い欅板を重ねるなどの防御が施されていた。また、三の丸に7、城外に9の砲台を備え、攻撃面も充実していた。しかし、戊辰戦争の際には、土方歳三率いる旧幕府軍に搦手から攻められ、あっさり落城している。その後、取り壊しや火事による消失を経て、天守は鉄筋コンクリートで再建され、本丸御門と旧福山城本丸表御殿玄関、堀上門(現・阿吽寺山門)が残る。近年、二の丸と三の丸の南東部が整備された。
松前城は、北の大地を彩る桜の名所として親しまれている。4月下旬の染井吉野など早咲きの桜からはじまり、中咲きの絲括(いとくくり)、遅咲きの関山(かんざん)、普賢象(ふげんぞう)まで1か月以上にわたって、250種1万本と、さまざまな桜の風景に出会うことができる。なかでも松前を代表する南殿(なでん)は、桜の精が僧の前に現れ伐採を逃れたという伝説を持つ「血脈桜」(光善寺)を親木として増やされたものだ。このほか松前生まれの桜も約100種ある。
松前城の特徴
- 松前城は、日本式の城郭として最後に築城された城で、最も北に位置している。
- 嘉永2年(1849)、日本近海に頻繁に現れるようになった異国船への備えとして、幕府から松前藩に対し築城の命令。完成は安政元年(1854)。
- 海に面した天守側内壁には厚い欅板を重ねていた。
- 三の丸に7、城外に9の砲台を備え、海への備えが充実。
- 松前城堀上門が阿吽寺に移築現存している。
聚楽第の桐章
文禄2年(1593)、松前家5代慶廣侯が豊臣秀吉に謁見、その時に聚楽第にあったと伝わる「桐章」を拝領している。松前城の本丸御殿に取り付けられていたが、解体後に松前神社に保存されており、これが現在、松前城天守内に展示されている。
松前城の撮影方法
松前城の桜は、4月下旬〜5月下旬まで長い期間を愉しむことができる。4月下旬の染井吉野など早咲きの桜からはじまり(桜の標本木は染井吉野)、中咲きの絲括(いとくくり)、遅咲きの関山(かんざん)、普賢象(ふげんぞう)まで1か月以上にわたって、250種1万本の桜が咲き誇る。松前を代表する南殿(なでん)は、桜の精が僧の前に現れ伐採を逃れたという伝説を持つ「血脈桜」(光善寺)が親木だ(写真)。松前生まれの桜も約100種あるのだとか。
松前城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る松前城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。松前城の関連史跡
松前福山波止場跡
国道228号線沿いに道の駅「北前船松前」があり、その付近に松前福山波止場跡がある。その名の通り、海に突き出た波止場でその石垣が見事。
そのほか
近くに郷土資料館があって無料で入れるぞ。また、マイナースポットとして、新撰組二番隊隊長永倉新八の家があったとされる場所。そのほか、松前藩屋敷というのがあるがこれは武家屋敷ではなくテーマパーク(投稿者:WWF世界ヘビー級チャンプ・肥後もっこり・りょうちん)。
松前城のおすすめ旅グルメ
松前漬け、イカ、まぐろ、うに、あわび、さざえなど海の幸でしょう。
松前城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
城の南に「松前屋」という情緒ある旅館や、よこはま荘、城の近くで海の幸満載!
松前城のアクセス・所在地
所在地
住所:北海道松前郡松前町字松城144 [MAP] 県別一覧[北海道]
電話:0139-42-2216(松前城資料館)
観覧時間 9時00分〜17時00分(入館時間は16時30分まで)。休館日は12月11日〜4月9日。
アクセス
鉄道利用
JR津軽海峡線、木古内駅下車、松前出張所行バス100分「松城」降車、徒歩5分。JR函館駅からもバスが出ている。
マイカー利用
函館より国道228号線を約2時間、町内標識あり。さくらまつり期間中は車で城の前までいけない。 駐車場有り。
日本最北の天守閣。松前城は春には道内有数の桜の名所として名高い。天守閣は小規模だが周りの庭園の雰囲気が良い。また、日本最北ということから考えて、哀愁が漂う城である。詳しくは存じませんが、幕末に建てられた城です。蝦夷地の警備が目的だとか。
( WWF世界ヘビー級チャンプ)さんより
春には道内有数の桜の名所として名高い。天守閣は小規模だが周りの庭園の雰囲気が良い。また、日本最北ということから考えて、哀愁が漂う城である。城の歴史は詳しくは存じませんが、幕末に建てられた城です。蝦夷地の警備が目的だとか。
( WWF世界ヘビー級チャンプ)さんより
なんと!250種8000本の桜がある。4月下旬から5月中旬は桜が満開。当時の遺構は本丸御門と旧表御殿玄関の2つ。天守は1961年の再建で資料館として機能している。
( shirofan)さんより
松前城天守は戦前は国宝でしたが、昭和24年に焼失してしまったため、現在あるものはコンクリート製の復元されたものです。そのすぐ隣にある本丸御門は現存の遺構です。
( KUBO)さんより
松前城の本丸御門の近くにあるプレハブの建物の中に本丸御殿玄関の遺構がありました。本丸御殿は廃城後、松城小学校の校舎として使われていましたが、校舎新築の際に玄関のみが保存され、同校の職員玄関として使われていました。ですが、その校舎も新築移転した際に、玄関のみここに移され保存されたようです。また、お城の裏にある阿吽寺の山門は、松前城の寺町御門を移築したものだそうです。
( KUBO)さんより
松前城に行ってみました。時間が時間ですからもう天守内には入れませんでしたが、天守前の駐車場の東側の方で搦め手門跡の復元が進められていました。馬坂の方は2年前に来た時にもきれいに整備されていましたが、それよりも天守よりの搦手門付近の復元工事はかなり進んでいて、石垣や堀などはほぼできあがっていました。その近くに整備イメージ図もありましたが、それによると平成11年から4年掛けて復元を進めるようで、三本松の前の搦手門やその先にある天神坂門等も復元するようです。
天神坂や馬坂の方を見た後、大手門跡の方に進みましたが、この辺もかなり石垣が残っていますね。それから更に上に行ってみたところ、以前本丸御門の左側の方のプレハブ小屋の中に収納されていた旧本丸御殿表門が修復されて本丸御門前の広場の端の方に立っていました。ですが、すでに天守は閉館してて、横から眺めることしかできなかったので、次の日にじっくりと見ることにして、本丸表御殿跡の広場の方に行きました。すると以前は気付きませんでしたが、端の方に土塁が残っていますし、シャクシャインの戦い終了後、首の代わりに松前に持ち帰った耳を埋めたという耳塚がありました。
( KUBO)さんより
幕府が北辺警備に築城を許可したらく、本格築城としてはわが国最後らしい。歴史のメインは函館戦争でしょう。
( 肥後もっこり)さんより
四季折々、違った城の風景が見られます。撮影場所は、城の裏手から堀を入れて写すのが有名。望遠があるなら、土方歳三が攻めたと思われる場所からの撮影(沢を挟んだ隣の丘)。
( りょうちん)さんより