若林城の歴史・見どころ

若林城の歴史

若林城(わかばやしじょう)の周辺では、中世に南小泉遺跡で有力者の城館や屋敷が複数営まれ、戦国期には国分氏がこの地域を治めていた。延宝年間(1673~1681)の『仙台領古城書立之覚』には付近に二つの「古城」があったと記され、後世の『東奥老士夜話』では、若林城はそのいずれかの場所に築かれたとしている。ただし、どちらの古城を利用したのかは明らかではない。

仙台藩初代藩主伊達政宗による若林城の造営は、寛永5年(1628)に幕府の許可を受けて進められた。普請地は湿地で、大雨によって土塁が崩れるなど工事は容易ではなかったという。寛永5年(1628)11月、政宗は完成した若林城へ移り、以後、仙台城で公的な儀式を行う場合を除いて、ここを日常の居所とした。

城の周囲には一門以下の家臣屋敷が置かれ、町屋敷も形成された。17世紀末の『仙台鹿の子』などから、若林城下は東西約3km、南北約1.5kmに及んだと推定され、「若林町奉行」も置かれていた。

政宗が若林城で過ごした期間は約8年間だった。寛永13年(1636)4月、江戸へ向かう際には、城の西南に杉を植えることや、屋敷を耕地へ戻しても堀一重は残すことなどを申し付けた。同年5月24日に政宗が江戸藩邸で死去すると、若林城の構築物は保存されたが、城下は廃止された。

寛永16年(1639)には、城内の屋形が伊達忠宗によって造営中の仙台城二の丸へ移された。『日本城郭大系3』では、瑞鳳殿の御供所は若林城の書院を移したものといわれ、松音寺や正乗寺の山門も若林城から移築したと伝えられている。この年、若林城は政宗の遺言どおり堀一重を残したかたちで廃城となった。

廃城から約240年後の明治12年(1879)、城跡には宮城集治監が設けられ、旧来の土塁を利用して煉瓦塀が築かれた。現在は宮城刑務所の敷地となっており、城跡には土塁や堀跡などが残る。

若林城の特徴と構造

若林城は平坦な南小泉の地に築かれた平城で、堀跡を含む城域は東西420m、南北350mに及ぶ。土塁の内側だけでも東西250m、南北200mあり、仙台市の調査では仙台城本丸や二の丸に匹敵する規模とされる。城域は東西に長い長方形を基本とし、四方に防御的な張り出しを設けた近世城郭の構造をもつ。

城の周囲には高さ5m前後の大規模な土塁が巡り、石垣は確認されていない。土塁の外側には堀が巡っていた。出入口は南側を除く三方に設けられ、西口の内側には鉤形に折れる高さ約2mの内枡形土塁が残る。他の二つの出入口にも同様の土塁が存在したことが、廃城後の絵図から確認されている。『木村宇右衛門覚書』には「大手は西」と記され、西側には二つの張り出しが設けられていた。

城内については、寛永4年(1627)の政宗の指示を記した『若林普請覚』に「山里」「南西どて」「南之丸」「的場」などがみえる。また『東奥老士夜話』には東南角の「矢倉」と北側の「築山」が記される。ただし、現在の土塁上部には櫓台などが確認されておらず、仙台市は、文献にみえる一部の構造が現在の城跡以外を記した可能性も指摘している。

若林城の整備状況

若林城跡は現在、宮城刑務所の敷地となっているため、城内を自由に見学できない。刑務所を囲む煉瓦塀の基礎には旧来の土塁が利用され、城跡の外周には土塁や堀跡が残る。仙台市の資料では、高さ5m前後の土塁が城域を巡り、西口内側には高さ約2mの内枡形土塁が確認されている。

現在の土塁上部には、文献に記された櫓に対応する櫓台などは確認されていない。城郭の主要部分が刑務所敷地と重なるため、現地では外周に残る土塁や堀跡が若林城の構造を知る主要な遺構となっている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系3』(新人物往来社)
  • 「若林城とは」(仙台市教育局文化財課)

若林城のおすすめ散策コース(順路)

若林城の北側、宮城刑務所の門前の通り沿いに「若林城跡石碑」と「歴史解説板」がある。また、堀と土塁の風景は、そこから徒歩7分(550m)、城跡の南東隅の道路上、仙台市営バス停「高原住宅前」付近から見ることができる。

若林城周辺の観光スポット・史跡めぐり

松音寺

仙台市若林区新寺にある寺院。山門は若林城から移築されたものと伝えられている。

若林城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:宮城県仙台市若林区古城2丁目3 [地図を見る]

県別一覧:[宮城県の城]

電話:022-214-8892(仙台市教育局文化財課)

アクセス

鉄道利用

仙台市地下鉄南北線「河原町駅」下車、東へ徒歩約23分(1.7km)。

マイカー利用

仙台南部道路「長町IC」から約16分(約8.2km)。駐車場は無く、付近のコインパーキングを利用する。

地図