![]() |
三成派(1021票) 家康派(528票) |
![]() |
1位 大谷吉継(167票) 2位 島津義弘(105票) 3位 真田幸村(101票) 4位 島左近(90票) 5位 小早川秀秋(82票) |
家康派 そもそも家康に対して豊臣家への忠義の心を求める事自体に無理があるでしょ!元々は家康の方が格上なんですから・・・でもちょっとネクラっぽいところがあるけどさ!
立花宗茂 男としてここまで『義』を貫き通して生きれるなんてカッコ良すぎると思いませんか?
家康派 家康派の中でも息子の秀忠に親近感を持ちました。関が原に遅れたし、何をやらしてももうひとつぱっとしなし。なんか自分みたいです。
細川忠興 自分の出身地の城の城主だから。
家康派 厳密に言うと、家康派というより三成が好きになれないから!三成が「義の人」なんていう方もいるみたいですが、本当の意味で「義」に生きたのは『立花宗茂』だと思う。家康の人間臭いところも嫌いじゃないし・・・自分が、あの時代に生きていたとしたら、やっぱり家康に付くだろうなあ
島津義弘 率いる軍勢は少なかったけど、彼の戦歴を考えれば三成がでしゃばらないで義弘の顔を立てて、彼に軍師として働いてもらえば、西軍は楽に勝てたでしょうに・・・
家康派 三成さんは人望がない。将来性も考えて、待ちに待って決戦に臨んだ家康さんのほうが安定した戦いができる。と思ったから。
加藤清正 加藤清正と福島正則は絶対一途で可愛いキャラをしているから!この二人が東軍についたからこそ、家康さんは勝てたと思う!
家康派 個人的な、好き嫌い。三成は頭が切れても周りが見えず人望の無い奴。・・というイメージです。うちの上司にもそんな奴がいますが、大嫌いだから・・・。
鳥居元忠 関ヶ原前哨戦の一番の功臣。伏見城の件はどのような文献を読んでも壮絶。忠実な三河家臣団の象徴のような一件では?
家康派 いろいろ細かいことはいっぱいありますが、とにもかくにも、天下分け目であるが信長、秀吉に続き天下統一を形にした家康の力は他の武将には到底かなわないと思います。時代が彼を選んだように思います。
前田利長 勉強不足で東軍に加わった理由がはっきりわからない知りたい!
家康派 下克上や謀略、命のやり取りをする時代の波に巧く乗った武将だからです。きれい事の許されない戦国時代の覇者だからです。ちなみに豊臣秀吉、秀頼の回りには、三成をはじめ淀君、大野三兄弟など家来や奥方の貧凡により豊臣衰退を早めたみたいです。結局一門家来に恵まれていなかったんですね。
伊達政宗 この武将がいなければ家康も安心して出兵できなかったでしょう。
家康派 たぬきオヤジは嫌いだけど、ハゲオヤジも嫌い。福島正則がちゅきっ♪だからってことで。
京極高次 何故西軍の軍勢を相手に戦って、何日も持ちこたえることが出来たのか疑問に思ってるから!
家康派 徳川家には全く興味がありません!むしろ三成の方に好感を抱いております!しかし黒田殿が東軍におるというのなら黒田殿に従い東軍につき申す!
黒田孝高 まさか天か分け目の決戦があんなに早く終わるとは思っても見なかったでしょう。もし戦いが長引いていたなら、必ずや如水様が天下を取られた事でしょう!吉川、小早川の両名は余計な事をしてくれたものだ!そしてせがれの長政も家康を左手で刺し殺せば良かったのだ!
家康派 某、筑前福岡52万石黒田家の末裔でござる。 徳川軍に属した黒田長政公を応援します! 吉川を参加させず、小早川を寝返らせた功績で、豊前中津からご加増でござる。 お家安泰!
黒田孝高 徳川軍と言っても、言ってみれば第三勢力の黒田軍。 九州・中国の兵を引連れ、上方へ上れば、徳川軍などひとひねり・・・と行きたいところだったが。 無念でござる。 しかし、そうなると歴史が変わってしまう・・・。
家康派 あいかわらずワシって人気ないのう。くり-んでわかりやすう〜い政治が人気の秘訣かのう・・・で戦国がおさまるかっつ-の!
真田幸村 いいねぇ。目立ってたねぇ。名を残したねぇ。
家康派 家康というか・・・家康の影武者派!家康はふたり存在した。本物の家康は関が原の戦前半で三成側の忍びにより討ち死にに・・・いつまでも行動を起こさない小早川に弾を撃ったのは影武者。関が原の戦いに勝ったのは影のおかげ。家康には将器があった。しかし心の中はあまり美しいものではなかった。それにひきかえ影武者の家康が考えをしながらも善の自分の心も加えた戦であった。家康は天下は徳川のものにするつもりだっが、影は豊臣に返すつもりだった。ただそうなれば自分の命があぶないと思い建てたのが駿府城である。息子に天下を譲って見張るために。だが極悪人な息子のせいで結局天下は徳川のまま・・・そして影も遂に毒を盛られ死す。影の名は・・・
本多忠勝 彼は家康が先に死んだことを知っていたのだ。
家康派 歴史に『もし…』は、禁物ですけど、伊達・上杉連合が、関々原に駆けつけていたら…。無用な戦いを避けるため、駿河・遠江を避けるでしょうから、真田親子vs徳川秀忠と遭遇し、一昼夜待たずに秀忠敗走。この一報が伝わると、内応していた、小早川・吉川が三成に加勢し、家康敗戦…。になるはずなのに、なぜ、伊達・上杉は動かなかったのか?世論が、次のニューリーダーを探していたからじゃないでしょうか?。秀吉を担ぎ続ける三成に世論は、NOという答えを出し、見渡した所、家康がいたのでしょうね。
福島正則 家康も、世論の意見に十分すぎるほど、答えた。有名な小山評定や、1600年7月〜9月に、108の外様大名に180通の手紙を書くなど、根回しも忘れていないし、59歳の老齢にも関わらず合戦に自ら参加している所など、世論が求めていたニューリーダーに相応しい人物像を作りあげている。大阪冬の陣・夏の陣でも、次のリーダーには、秀忠と世間にアピールしている。兵力・戦略・戦法云々を考える前に世論を味方にした家康の頭脳勝利だったんでしょうね。