写真:岡 泰行

長水城の歴史と見どころ

播磨守護職の赤松則祐が正平元年(1346)頃築城し、則祐の兄範資の子広瀬遠江守師頼が初代城主となったのが始まりと言われています。その後五代目親茂の時、嘉吉の乱に際して山名持豊の軍に攻撃され嘉吉元年(1441)9月に落城して一時廃城となりますが、応仁の乱で復権した赤松政則により文明元年(1469)修築され、同族の宇野満利が新しい城主となりました。天正8年(1580)四代目祐清の時、中国征伐で三木城を攻略した豊臣秀吉が長水城に対して降伏勧告を行ない、城中も評議により敵対しない事を取り決めましたが、隠居政頼が返答の為に姫路城に出向いた所、秀吉は長時間待たせて会わなかったので政頼は怒って帰城し交渉は決裂してしまいました。結果、同年4月には秀吉軍の荒木平太夫、神子田左衛門、蜂須賀正勝らの攻撃を受け、5月9日、城兵の奮戦むなしく内通者の放火によって炎上し落城しました。以後は再建される事なく廃城となりますが、昭和9年(1934)宇野氏の臣石丸氏の裔渡辺日妙尼により日蓮宗の霊場として長水山信徳寺が建立され現在に至っています。
(文:吉田豊太郎)

長水城の関連史跡

国道29号線を南に下っていくと長水城と関連の深い篠ノ丸城跡(同時期に豊臣秀吉によって攻略された)や山崎城(江戸初期では6万石藩主の居城でしたが幕末時にはその本丸部分のみを陣屋として使用していた)があります。
[吉田 豊太郎 (1999.12.27)]

長水城のアクセス・所在地

所在地

住所:兵庫県宍粟市山崎町五十波1063 [MAP] 県別一覧[兵庫県]

鉄道利用

JR山陽本線、姫路駅下車、神姫バス山崎行き、終点乗り換え、バス曲里行き「西五十波」降車。
バス停からは梯川(揖保川の支流でバス停付近で合流しています)に沿って西に行くと長水山登山口があります。道は林道なので山の半分近くまで(あくまでも半分程です)。残りは徒歩(車でも行く事ができ、終点は広くなっていて5~6台駐車できる様になっています)。たたし途中から未舗装かつガードレール無しとなっているので注意が必要です。なおこのルートは城跡の南東方向から登って三段の大郭の最下段に到着します。

また山の反対側の中野からも登るルートもあり、こちらは伊水小学校付近に登山口があります。こちらのルートが本来の大手口にあたる登城ルートで山麓には居館跡や砦、城門跡が点在しており、城跡へは南西方向から登って三ノ丸背部の堀切付近に到着し、二ノ丸脇を通ってから本丸へと着きます。いずれのルートにしても車で行った方が便利です。
[吉田 豊太郎 (1999.12.27)]

マイカー利用

中国自動車道、山崎ICから北へ約7km(40分)。詳しくは上記参照。

城ファンの気になるところ (3)

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    兵庫県山崎町の北にある標高584.7mの長水山の山頂に位置する山城。最高所に本丸を置き、そこから南に張り出す尾根上に二ノ丸、さらにその先端から南東に張り出す尾根上に三ノ丸を並べた梯郭式の城郭で、更に本丸の南東方向には10m以上の段差をもって三段の大郭が続き、大郭の最下段からは北西方向に小郭郡が接続しています。

    ( 吉田 豊太郎)

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    長水城の曲輪の総数は35以上でその殆どが4m前後の段差で階段状に並んでいます。また、石垣は本丸周辺部に集中していて特に三段の大郭はすべて総石垣となっています。見所はこの本丸周辺なのですが、現在は昭和9年に建立された長水山信徳寺があるので人の手が入っているかもしれません。ちなみに本丸には本堂、三段の大郭には管理人事務所等の民家が建っており、また本丸へは鉄製の階段が設置されています。ただし寺といっても立ち入り禁止となっている訳ではなく登山客も結構いるみたいです。城跡には結構ベンチ等が多く設置されており、特に本丸にある本堂前のベンチに座ると山麓が見渡せてオススメです。

    ( 吉田 豊太郎)

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    長水城とは直接関係ありませんが長水山山頂の管理事務所(民家)で「長水山 登山記念」と彫られた木製のキーホルダーと通行手形が売られていましたが今はありません。

    ( 吉田 豊太郎)

城の情報

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