写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

世田谷城の歴史と見どころ

世田谷城(せたがやじょう)は静かな木立の下、世田谷城址公園に残る空堀と土塁が往時の面影を今に伝えている。都心近くにありながら、中世の記憶が微かに息づくこの地は、かつて名門・吉良氏の居城として二百年あまり栄華をきわめた城下町であった。戦国の世、江戸と小田原を結ぶ街道沿いの要衝として市(いち)の人で賑わった世田谷城だが、時の移ろいの中で静かにその姿を消していった。豪徳寺の梵鐘が響く夕暮れ、遙かな歴史の余韻が漂うといって差し支えないだろう。

世田谷城の歴史

世田谷城は南北朝時代に関東管領・足利基氏から武功の恩賞として世田谷の地を与えられた初代吉良氏によって築かれたと伝わる。築城の正確な時期は定かでないが、一説には貞治5年(1366)頃、吉良治家が世田谷城を築いたともいわれる。

吉良氏は清和源氏流・足利氏の庶流にあたり、以後八代にわたり世田谷を本拠としてこの城で勢力を保った。城内には吉良氏の居館が置かれ、吉良御所または世田谷御所と称されるほど格式ある館として知られた。

戦国期には小田原の北条氏と姻戚関係を結び、その庇護下で城下町・宿場町が形成される。天正6年(1578)、北条氏政(小田原城主)は世田谷城下の世田谷新宿に楽市を開き、定期市を免税の自由市として繁盛させた。

しかし天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで主家の北条氏が滅ぶと、世田谷城主・吉良氏朝も運命を共にして所領を失い、吉良一族は上総国生実(現在の千葉市)へと落ち延びた。

世田谷城はこの時廃城となり、その石材は徳川家康による江戸城改修に転用されたとも伝えられる。城下町であった世田谷新宿は城の廃止に伴い急速に衰退し、楽市も姿を消すが、後に歳の市として細々と受け継がれ、現在のボロ市へとつながっている。

世田谷城の特徴と構造

世田谷城は経堂台地の南端から突き出した舌状台地上に立地し、目黒川の支流の烏山川(からすやまがわ)が蛇行する北側で三方を取り巻いて天然の堀を形成していた。城の北に甲州古道中出道、東に鎌倉道が交差する交通の要衝に築かれている。平地と台地が接する要地に築かれた平山城であり、城域は現在の世田谷区豪徳寺二丁目のほぼ一帯に及んでいたと推定されている。

郭(曲輪)や居館の配置については詳細不明だが、城は大きく分けて吉良氏の館があったエリアと、万一の籠城のための詰めの城のエリアから構成されていたと考えられているらしい。主郭(本丸)は豪徳寺境内付近に置かれ、南東端の支郭が現在の世田谷城址公園として整備されている。園内には土塁や空堀の遺構が残り、中世城郭の防御の跡を今に見ることができる。

本郭跡(豪徳寺境内)

世田谷城の本郭(主郭)は現在の豪徳寺境内に相当する。城内には吉良氏ゆかりの菩提寺「弘徳院」(豪徳寺の前身)が創建されており、豪徳寺も城域とするならば、城と寺が一体となって機能していた。現在、豪徳寺には井伊家歴代の墓所や招き猫で知られる三重塔などが建ち並ぶが、その静かな境内が往時の本丸跡である。なお、城域は、世田谷城址公園から豪徳寺山門までとする説と、豪徳寺を含めた範囲とする説があるが、発掘調査などにより裏付けはされていない。

空堀と土塁

城の防御施設である空堀は、城址公園内に残存する。深く掘り込まれた堀は水を湛えない空堀で、土塁と一体となって敵の侵入を阻む役割を果たした。現在、公園北側から住宅地にかけて空堀跡が確認でき、鬱蒼と茂る樹木の下に中世城郭の面影を留めている。

空堀と並んで城域を画しているのが土塁である。城址公園内では空堀に沿って高さ数mほどの土塁が残り、そのかたちから堀の構造がうかがえる。土塁は、現在は樹木に覆われているが、往時は見晴らしを確保しつつ城を防衛する重要な役割を担ったと考えられる。

参考文献:

  • 『東京都の中世城館』(2013東京都教育委員会)
  • Webサイト『東京都指定旧跡 世田谷城跡』(世田谷区)
  • Webサイト『世田谷城阯公園』(世田谷区)
  • Webサイト『世田谷のボロ市』(世田谷区)
  • Webサイト『このまちアーカイブス 世田谷・経堂(小田急沿線)』(2020 三井住友トラスト不動産)

世田谷城の学びに役立つ本と資料

書籍資料では『東京都の中世城館』(2013東京都教育委員会)が良い。現地案内板は、世田谷城阯公園の西側(城山通り側)、遊具などが設置されているエリアにある案内板「世田谷城跡」が、発掘調査や城域の推定図が掲載されていて詳しい。案内板の裏面(道路側ではなく城側)を見るべし。

世田谷城の周辺史跡を訪ねて

空堀と土塁が残る世田谷城阯公園と豪徳寺の訪問時間は30分程度。時間に余裕があったら関連史跡に足を伸ばしてみたい。中世に吉良氏の居城として築かれた世田谷城は、江戸時代に入り廃城となったが、その周囲には城と深く関わる神社仏閣や、藩政期の歴史を伝える文化財が残されている。世田谷城跡とあわせて巡りたい関連史跡を紹介する。

豪徳寺(旧・弘徳院)

文明12年(1480)、吉良政忠が世田谷城内に創建した弘徳庵を前身とする。江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺となり、万治2年(1659)に豪徳寺と改称された。現在も井伊家の墓所や三重塔が整い、招き猫発祥の寺として親しまれている。

世田谷八幡宮

源義家が後三年の役の戦勝祈願のため創建したと伝わる古社。天正年間には世田谷城主、吉良頼康によって再建され、世田谷の総鎮守とされた。境内では江戸時代から奉納相撲が行われ、現在も土俵と力石が残る。

勝光院

建武2年(1335)に吉良治家が創建したと伝わる曹洞宗寺院。天正元年(1573)には吉良氏朝が再興し、頼康の法名にちなんで「勝光院」を寺名とした。吉良一族の墓塔が境内に残り、世田谷城主の菩提寺としての格式を今に伝えている。境内の竹林は世田谷城の防備のためといわれている。

世田谷代官屋敷

中世に吉良氏に仕えた大場氏が、江戸期に彦根藩の代官として再び登用された旧大場家住宅主屋。現在も茅葺きの主屋や表門が残る。国の重要文化財。

世田谷城のアクセス・所在地

所在地

住所:東京都世田谷区豪徳寺2丁目 [MAP] 県別一覧[東京都]

電話:03‑3429‑4264(世田谷区文化財係)

アクセス

鉄道利用

東京急行電鉄世田谷線、宮の坂駅下車、東南へ徒歩6分。「世田谷城阯公園」が空堀と土塁が残るエリア。

マイカー利用

首都高速3号渋谷線、池尻出口から、西へ約15分。または、首都高速4号新宿線、永福出口から、南へ約15分。世田谷城阯公園は駐車場無し。

※記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。

世田谷城に寄せて

これまでに届いた世田谷城訪問者の声:全6件

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    豪徳寺山門の脇の土塁。世田谷城跡公園の空掘り。住宅地のためほとんどの遺構が破壊されているが、上記だけかろうじて残っている。

    ( 田村靖典)さんより

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    室町時代初期、 鎌倉府の支えとして 足利氏一族の吉良治家の築城。吉良氏は世田谷御所様・吉良殿様 と呼ばれ権勢を誇っていたが。 戦国期には、台頭著しい北条氏の傘下に入っていた。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の時、北条氏が降伏した為、 その時の当主・氏朝は豊臣に降伏し開城。 世田谷城は二百年の歴史に幕を下ろし、廃城となった。城壁の石材等は徳川氏の江戸城修築の材となったと言われる。

    ( 田村靖典)さんより

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    世田谷城の城域については諸説あり、土塁と堀の一部が残っている公園を中心としたエリアを詰の城、豪徳寺のエリアを吉良氏館と推定されている。

    ( shirofan)さんより

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    吉良治家以来、八代にわたり二百余年。世田谷郷はまさに吉良氏の根拠地であった。考古調査により、掘立柱や地下式の構造が出土したというのは、中世武士の居館としての様相をよく伝えてくれる。城というより、治者の「住まいのかたち」が静かに残る好例だ。

    ( 郷土史双六斎)さんより

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    世田谷に、これほど静かな土塁と空堀が残っているのは奇跡に近い。しかも地元の人がふだんの散歩コースとして自然に使っているのがいい。説明板を読みながら歩けば城跡が多少見えてくる。

    ( 城あるき父さん)さんより

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    世田谷城って、なんだかお堀と土塁の「静けさ」が主役みたいな場所。城っぽい建物があるわけじゃないけど、ちょっと坂をのぼって空堀をのぞき込むだけで、あれ?ここ戦国?みたいな時間旅行が始まる感じ。世田谷線でのんびり来て、豪徳寺の猫たちとセットで歩くのが好き。

    ( たびてつ文庫)さんより

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