小浜城は慶長6年(1601)、京極高次によって築城が始まり、のちに酒井忠勝の整備により完成した若狭の近世城郭だ。小浜湾と北川・南川を取り込んだ水城で、本丸を中心に曲輪を配した構造をもつ。現在は本丸の石垣や天守台が残り、往時の規模を伝えている。このページでは小浜城の歴史と構造、遺構の見どころを紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
小浜城の歴史・見どころ
小浜城(おばまじょう)は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、若狭一国を与えられた京極高次が入部したのち、慶長6年(1601)より築城が始められた。従来の後瀬山城に代わる近世城郭として、北川と南川に挟まれた雲浜の地に築かれたもので、西は小浜湾に面し、三方を水に囲まれた水城として構想された。築城にあたっては、河川の流路を付け替え、外堀として利用する大規模な土木工事が行われ、若狭各地から石材や資材が運ばれたが、江戸城や大坂城の普請役、大坂の陣への出兵などが重なり、工事は思うように進まなかった。
慶長12年(1607)頃には一応の完成をみたとされるが、寛永11年(1634)に酒井忠勝が入部した時点では、天守は未完成であった。忠勝は幕府の許可を得て大規模な修築を進め、寛永12年(1635)に天守台を築き、翌寛永13年(1636)10月、幕府大工頭中井正純の指揮により三重の天守が完成した。その後も石垣や虎口、櫓などの整備が進められ、正保2年(1645)頃には本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸を備えた近世城郭として完成した。
寛文2年(1662)には大地震により石垣の多くが破損したが、修復が行われ、その後は大規模な改修を伴わず維持された。城下町は京極氏の町割を基礎として整備され、竹原と西津の二地区に家臣団が配置され、南側には細長い町人地が形成されるなど、若狭唯一の近世城郭として、港町の性格を強く持つ城下町が発展した。
明治維新後、明治4年(1871)の火災により城内の建物の大半が焼失した。翌明治5年(1872)には城内交通のため本丸東側の石垣が破壊され、さらに明治6年(1873)の廃城令により天守も解体された。以後、市街地化が進み、現在は本丸を中心とする石垣が往時の姿を伝えている。
小浜城の特徴と構造
小浜城は、小浜湾に面し、北川・南川・江古川を外堀として取り込んだ海城である。城の規模は東西約550m、南北約570mに及び、総面積約6万㎡の広がりをもつ。本丸を中心に内堀を巡らせ、その外側に南に二の丸、東に三の丸、北に北の丸、西に西の丸を配置し、さらに外堀で囲む同心円状の縄張りが特徴だ。
外堀の西側は海をそのまま利用し、南は付け替えられた南川、東・北は江古川を拡幅して構築されており、水利と地形を巧みに活かした構成となっている。本丸西南隅には三重の天守が築かれ、高さ約29mの威容を誇った。石垣は全体に高く、天守台や各曲輪の出張部などに往時の姿をよく残す。城内には櫓や多門、門が多数設けられ、軍事拠点であると同時に、政庁としての機能も担っていた。
小浜城の整備状況
現在の小浜城跡は、市街地の中に位置し、本丸を中心とした石垣が主な遺構として残る。昭和54年(1979)から同57年(1982)にかけて行われた発掘調査では、長局跡や井戸などの遺構が確認され、城郭構造の解明が進んだ。また、海に面する西側では、幅約6mの乱石積みによる護岸構造が確認され、海域防御の工夫が明らかとなっている。
さらに、平成9年(1997)から平成13年(2001)にかけての調査では、瓦の出土状況から複数の瓦工房の存在が示唆され、城の維持に関わる生産体制の一端が明らかとなった。現在も石垣の保存と周辺環境の整備が進められ、往時の姿を伝える史跡として保全が図られている。
参考文献:
- 『日本城郭大系』(新人物往来社)
- 「小浜城跡パンフレット」(小浜市)
- 『福井県史通史編3』(福井県)
小浜城の撮影スポット・絶景ポイント
小浜城跡を訪れたなら、ぜひカメラ片手に歩きたい。現在は小浜神社の境内として静かに残る本丸周辺は、石垣風景を狙いたい。代表的な撮影カットとなるのが、天守台跡を本丸城内側からとらえた構図である。多聞櫓跡と思われる石垣のラインとその雁木(石階段)を前景におさめ、その先に連結する天守台を据えることで、立体的で奥行きのある構図となる。周囲には木々が生い茂り、日差しが強いと影が強調されやすいため、曇天の日に撮影すると、石の質感や苔の表情が柔らかく引き立つ。
小浜城周辺の観光スポット・史跡めぐり
小浜神社境内の「酒井家邸宅門(縮小移築)」
小浜城本丸跡に鎮座する小浜神社。その鳥居すぐに、かつての藩主酒井家の邸宅門が、縮小移築のかたちで現存している。この門は、明治維新後に城郭の建物が取り壊された際に残された数少ない木造建築のひとつであり、本来は藩主の私的空間である邸宅の玄関口に据えられていたと伝わる格式ある門である。縮小されているとはいえ、切妻屋根や格子の意匠、用いられた材の風格には、旧藩主家の品位が今も漂う。神社参拝の折に、歴史の余香をたたえるこの門に気づけば、小浜城の暮らしの一端が垣間見える。
福井県立若狭高校正門(旧藩校・順造館正門)
現在、福井県立若狭高等学校の正門として使用されている門は、かつて小浜藩の藩校「順造館(じゅんぞうかん)」の正門であった。順造館は、酒井忠進の時代に設けられた藩の教育機関であり、儒学や兵法を中心に、藩士の子弟教育の場として重要な役割を果たしていた。正門は簡素ながら品位を備えた造りで、藩校らしい簡素で落ち着いた意匠は、今も静かな佇まいとして見る者に印象を残す。小浜城の知的中枢ともいえる空間の名残が、現代の学び舎の入口として今も受け継がれていることは、城とまちの歴史的な連続性というものを感じさせてくれる。
多田寺に移築された「小浜城書院玄関」
小浜市多田に所在する天台宗の古刹・多田寺には、小浜城の書院玄関が移築・保存されている。この玄関は、藩主や公用客との対面に用いられたとされる書院の玄関部分であり、格式高い空間の一部であった。移築先の多田寺は、もともと藩主酒井家の信仰厚い寺院でもあり、こうした歴史的背景から書院の一部が保管されることとなった。現在の建物は、玄関部分のみながらも、欄間や框、屋根構造などに当時の意匠を残しており、藩政期の書院建築の一端をうかがうことができる。静かな境内に佇むその姿には、小浜城のかつての生活と礼儀の空気が確かに宿っている。
近隣の主要な城
小浜城の前身は、海を望む後瀬山に築かれた中世山城・後瀬山城である。戦国の気配を色濃く残す国吉城、細川幽斎ゆかりの田辺城、そして港町敦賀の中心に置かれた敦賀城など、小浜を中心とする若狭・丹後一帯には、海陸交通を睨んだ城が点在する。
小浜城周辺グルメ・名物料理
若狭の海とともに生きてきた小浜の城下町には、歴史の味が今も息づいている。まず筆頭は、小鯛のささ漬け。酢締めにされた若狭鯛が、笹の香とともに上品に口にひろがる。続いて、鯖街道にその名を刻む焼き鯖寿司。脂ののった鯖が香ばしく、酢飯と調和する一品だ。甘味では、冬の定番である「でっちようかん」も外せない。控えめな甘さが散策の休みに寄り添う。そして漁港に近い店では、新鮮な魚介をふんだんに盛った海鮮丼が、目と舌を満たしてくれる。歴史と海の恵みが、旅の記憶にやさしく残る。
小浜城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:福井県小浜市城内1丁目7-55 [地図を見る]
県別一覧:[福井県の城]
電話:0770‑64‑6034(小浜市文化観光課)
電話:0770‑52‑1920(小浜神社)
- 小浜城公式サイト(小浜市)
アクセス
鉄道利用
JR小浜線、小浜駅下車、徒歩15分。小浜神社を目指す。レンタサイクルもある。
マイカー利用
舞鶴自動車道舞鶴東IC、国道27号を東へ。小浜神社に無料駐車場(3台)有り。
地図
小浜城周辺ホテル・宿泊情報
小浜城跡から徒歩約1分の「ビジネスホテル若杉本館」は、駅至近で観光拠点に最適。駅から徒歩約5分の「ビジネスホテル山海」も利便性が良く、周辺飲食店やコンビニにも近い。温泉では、小浜中心域から車で約30分、気山駅近くの虹岳島温泉「虹岳島荘」が、湖畔の源泉かけ流しと地元食材の会席で旅の疲れを癒す。城巡りとともに心地よい夜を過ごすには最適な宿泊地となろう。
小浜城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
小浜神社拝殿のお賽銭箱の横に、小浜神社発行の『小浜城と小浜城下町』の冊子がある(A4・8ページ・100円)。また、小浜神社鳥居右手に案内板、絵馬堂内部に、小浜城と城下町の絵図がある。
小浜城:城ファンの知見と記録
小浜城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全6件)。
小浜城でのひとときを、そっと記録に残す







かつては三層の天守を備え、櫓の数は42、門櫓5、多聞10、狭間の数は1320と相当な規模の城だったが、現在は小浜神社のある本丸の一部が残るのみ(天守台あり)。
記録:shirofan 2016
付近の城では、後瀬山城。同じ街の中に戦国時代より前の山城の址が残っている。別名武田城。また、小浜のグルメでは「すし政(すしまさ)」寿司屋。JR駅から小浜城址への途中、市役所前。若狭の魚をつかったネタなら何でもOK。
記録:藤田茂樹 2005
譜代大名酒井家12万石の領地であったため、明治初年まで天守も残されていた。小浜市は2004年、城の復元計画を発表し、10年計画をスタートさせた。完成想像図や古写真、募金計画などが紹介されている。
記録:藤田茂樹 2005
毎年5月はじめにお城祭りがあり、酒井忠勝が川越から連れてきたといわれる伝統芸能の獅子舞が奉納されている。小浜藩は、藩医として解体新書を書いた杉田玄白でも有名。
記録:藤田茂樹 2005
天守台を含む本丸部分の石垣だけがかろうじて残っていて、内部は、江戸時代にこの地に川越から転封された酒井忠勝を祀る小浜神社となっている。酒井忠勝は「樅の木はのこった」で有名な伊達騒動のときの大老。
記録:藤田茂樹 2005
もともとは川2つにはさまれたなかなかの水城だったようですが、最近の護岸工事で川の流れが変えられてしまい、旧城跡はほとんどが川の流れに飲まれてしまいました。
記録:よーすけ 1998