写真:岡 泰行
高崎城の歴史と見どころ
高崎城の築城は、高崎城の前身である和田城の跡地を組み入れ、20倍以上の面積をもち、三重の堀で囲まれていました。慶長3年(1598)、箕輪城主井伊直政が家康の命令により、大修築をし、この時「高崎城」と命名されます。立地が中山道と上州の街道の要所を押さえる役目を果たしていたため城主には歴代の重臣が名を連ねていました。この城が違う意味で有名になったのは、ある事件がありました。三代将軍家光の弟、忠長が狂乱、狂暴殺傷の罪で自刃しています。
高崎城の特徴と構造
高崎城の西側の川沿い部分は、前身の和田城跡と言われております。西郭と呼ばれていた、鉤状に曲がった郭が和田城の本丸跡の様です。というのも、東隣りの前橋城(再建前の古い方)の縄張りにその形状が酷似しており、前橋城の本丸はまさに鉤状のエリアだったからです。古い絵図によれば、前橋城の本丸の鉤状の郭の先端には、高い土塁が築かれ三重の櫓が建っていた様です。高崎城の西郭の先端にも同様の高い土塁が築かれており、櫓台として最近まで残存しておりましたが、国道17号の拡幅で破壊されてしまいました。和田城にしても前橋城にしても川沿いに並郭式に曲輪を連ねる場合の戦国期の基本的な型を見るようで興味深いです。
乾櫓と東門(長屋門)
櫓は、明治頃農家に払い下げられ納屋となっていたものを、移築復元されています。ただ、その下の石垣については、史実とは異なるので行くときには気を付けましょう。また、東門は昭和55年に移築され、長屋門形式の番所が付属しています。特徴としては壁面は下見板張りとなっており、番所の方は無双窓で張り出す形となっています。
外濠と土塁
高崎城の中心部(本丸・二の丸)は、高崎市役所などが建てられたため見事に壊滅していますが、三の丸を囲む土塁と外濠が現存しています。外濠の規模は、長さ約1,400m、幅は15〜16mあります。道路拡張のため5〜6mは狭くなっているのが残念です。また、土塁は三の丸を囲むように逆コの字型に残っています。高さは、場所にもよりますが低いところで約70cm、高いところで2~3mあります。
高崎城の資料
高崎城については、享保の頃に記された「高崎城大意」という資料があります。この城の縄張について、維持保全、戦時における使い方、などこと細かく書かれてあります。今に残るのは写本ですが高崎市で刊行している資料に全文が載っていますので、絵図と照らしながら読むと面白いでしょう。
文化年間の頃のものとされる「高崎城断面図」という資料には、城門、櫓、土塀の絵姿が狭間の位置や形状、“折”の位置や長さ等の詳細なデータと共に載っています。巽櫓の絵などは、先に記した古写真の姿とおりに描かれていますから、かなり正確といえるでしょう。いずれも高崎市の市立図書館の「郷土資料コーナー」にありますので、城郭マニアの方には、是非とも見てもらいたいものです。
(文=J=D=メリック・レイリアぱらたん)
高崎城の撮影方法
高崎市役所には展望室があり、高崎城を見おろすことができる。
櫓後ろの外濠の脇歩道から乾櫓を狙うと良い。2月頃の雪が降った直後がGOOD。
(J=D=メリック 1999.05.17)
高崎城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る高崎城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。高崎城の関連史跡
長松寺には、徳川忠長が自刃した部屋が移築されています。
[ばっちこーい (2011.05.04)]
高崎城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
JR高崎線高崎駅西口に、ワシントンホテル、ターミナルホテル、古そうな旅館があるので多分、それで……。
(J=D=メリック 1999.05.17)
残存する少ない遺構なのだから、整備を進めて欲しいなと思います。外濠の幅がちょっと……悲しいかなと。発掘調査では幅約25m、深さ5m程あったらしいですよ(残ってれば、自慢できたのに。苦笑)。
( レイリア(ぱらたん))さんより
高崎城の古写真としては、明治初年に撮影された御三階櫓の正面全景があります。伊予の宇和島城のような端正なプロポーションです。その他最近刊行された高崎市史の近代編の口絵写真に高崎の兵営を撮影したものがあり、説明分によると、「此図ハ高サキ本城より巽櫓ニ向内外郭ノ体裁ヲ写ス 明治六年秋……」とあり、二階建ての木造の兵舎よりも高い土塁の上に二重櫓とそれに続く土塀がハッキリ見えます。おそらく破壊直前の御三階櫓に上って写したものでしょう。
( J=D=メリック)さんより
春になると桜が見事に咲き誇ります。
( ばっちこーい)さんより