大阪城の南外堀

南外堀とは

大阪城の南外堀は、大手口から玉造口までを結ぶ二ノ丸の水堀で、幅は広いところで約100m、石垣の総延長は約2kmである。この広大な堀と石塁の風景は大阪城を訪れた人にとって印象深く、誰しもシャッターを切るほどのスケールがある(大阪城の堀の幅は南内堀の約40mが最短で西外堀の150mが最も広い)。南外堀に面する二ノ丸の石垣は高く、約30mの高さがある。かつて徳川家康が豊臣大坂城を南から(上町台地上から)攻めたように、南側が大阪城の弱点だ。これを補うかのように広大な水堀を造り、往時は二ノ丸石垣上に7棟の櫓が建ち並び大阪城を守っていた。戊辰戦争の大火や第二次世界大戦の空襲で五棟の櫓を失い、現在は1番櫓と6番櫓の二棟が現存している。

南外堀の水はどこから来ているのか

南外堀の水源は、徳川築城時から戦後頃までは上町台地の地下水で、現在は下水処理場から高度処理水が注入されている。南外堀は昭和40年(1965)に水位が急速に低下、昭和46年(1971)には干上がり空堀のように干上がったことがある(西外堀は、昭和25年頃から水位が低下し昭和33年に急速に低下し昭和34年には干上がった)。これは、戦後の高度経済成長で大量の地下水が汲み上げられたことによるものといわれ、大阪市内では地盤沈下も起きたらしい。昭和34年(1959)に地下水汲み上げに規制がかけられたが水位は回復せず、一時、工業用水を入れ水堀の面影が回復する。だが完全な姿への回復は厳しい状況だった。昭和45年(1970)、万博博覧会をきっかけに、公園事業をもとに景観を重視すべく、平野川と第二寝屋川の合流地点付近にある中浜下水処理場の高度処理水を、公園用水(修景用水)として昭和45年11月から注入、現在に至っている。

大阪城南外堀の公園用水の注入口
南外堀の公園用水の注入口のひとつ。

南外堀の景観

早朝の南外堀の風景
早朝に見る南外堀の風景。西側から見る南外堀。中央の櫓は六番櫓。

東側から見る大阪城南外堀
東側から見る南外堀。

南外堀に面する屏風折れの大阪城二ノ丸石垣
南外堀に面する屏風折れの二ノ丸石垣。

南外堀越しに見る二ノ丸石垣(56号壁)の石垣刻印
南外堀越しに見る二ノ丸石垣(56号壁)の石垣刻印。

6番櫓付近の二の丸石垣の抜け穴
南外堀(二の丸)石垣の抜け穴(通称、謎の抜け穴)。約1m角の穴で望遠レンズで捉えると内部が崩壊しているのが分かる。明治以降に旧陸軍が作った可能性が高いと見られている。

KKRホテル大阪から見る南外堀
KKRホテル大阪から見る南外堀。

南外堀沿いに咲く桜
春は、南外堀沿いに咲く桜が美しく、花見に訪れる人も多い。

(文・写真=岡 泰行)

参考文献:
『特別史跡大坂城跡保存管理計画』(大阪市ゆとりとみどり振興局)
『特集・水環境の保全と水環境創造 大阪市における下水の高度処理水を利用した水環境創造』

『南外堀』現地案内板の記載内容

大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。

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