八代城は、元和8年(1622)に加藤正方が球磨川河口北岸の松江の地に築いた平城だ。一国一城令の例外として幕府に認められた城で、加藤氏・細川氏・松井氏と三家が治め、明治3年(1870)の廃城まで約250年にわたり肥後南部の拠点であり続けた。現在は水堀に囲まれた本丸跡が市民公園として整備され、天守台や石垣が往時の面影を残す。このページでは八代城の歴史・見どころ・アクセス・周辺観光情報を豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
八代城の歴史・見どころ
八代城(やつしろじょう)は、日本三急流のひとつ球磨川の河口北岸、松江の地に築かれた平城だ。その誕生のきっかけは、元和5年(1619)に肥後一帯を襲った大地震だった。球磨川河口近くの麦島城が壊滅的な打撃を受けて廃城を余儀なくされると、熊本城主・加藤忠広は幕府に新たな築城を願い出てこれを許され、家老の加藤正方に命じて元和6年(1620)から普請を開始させた。元和8年(1622)2月に竣工した「松江城」とも呼ばれるこの城が、現在われわれが八代城と呼ぶ城だ。
一国一城令が発布されて7年後というのに、幕府がこの築城を認めたのは、南の大藩・薩摩への備えという現実的な理由があったからだろう。熊本城と八代城という二城体制は、九州における政治的・軍事的均衡を保つうえで欠かせぬものだった。
寛永9年(1632)、加藤忠広は理由定かならぬまま改易となり、細川忠利が熊本に入封する。これにともない、忠利の父・細川忠興(三斎)が幕府の内命を受けて豊前中津城より入城し、北の丸に居所を定めた。天下に聞こえた文化人にして武人である三斎が、晩年を過ごしたのがこの城だ。正保2年(1645)、八十三歳で没した忠興のあと、藩主光尚は重臣・松井興長を八代城主とした。
松井氏はもと長岡氏といい、細川幽斎ゆかりの家柄だ。その祖・康之は将軍足利義輝・義昭に仕え、長岡藤孝(細川幽斎)とともに足利幕府の再興に尽力した。天正7年(1579)に藤孝が丹後一国の領主となると、康之は織田信長から丹後のうち一万三千石を与えられ、慶長4年(1599)には豊後国杵築城の城代となった。細川氏の水軍を率いた康之の子・興長が、海に臨む城郭の主に選ばれたのは、いかにも必然だった。以後、松井氏は二百二十五年にわたって八代城に居城し、明治3年(1870)の廃城まで代々この地を治めた。
なお、寛文12年(1672)には落雷により天守・櫓・長塀が焼失し、15人の事故死を出す惨事となった。寛政9年(1797)にも再び落雷で本丸大書院と三階櫓などを失っている。大書院こそ再建されたものの、天守はついに再建されることなく、城はその姿を変えながら明治を迎えた。俳諧の祖・西山宗因は加藤正方の家臣であったといい、廊下橋門内には昭和40年(1965)に建てられた宗因の句碑が今も残る。また本丸内には、南朝の征西将軍・懐良親王を祀る八代宮が鎮座している。
八代城の特徴と構造
八代城は、麦島城の石材を転用し、名古屋城の様式を小型化したとされる、ほぼ方形の本丸を中心とした平城だ。本丸を軸に、南東に二の丸、南西に三の丸、北西に北の丸、北東に出丸を配した五つの郭が城を二重に取り囲む縄張りで、それぞれ水堀によって区切られている。
天守は本丸北西の最高所に設けられ、地階1階4層5階の大天守と、これに連結した2層2階の小天守がそびえた。大天守台の石垣は美しい扇の勾配を描き、本丸各隅には月見櫓・三階櫓などが配されていた。石垣には地元八代産の石灰岩が多用されており、加工の難しいこの石材を見事に積み上げた技術は当時の石工たちの腕の高さを今に伝える。縄張りには敵を惑わす「ひずみ」や「桝形」が随所に取り入れられ、西の堀には鋭い棘をもつ鬼蓮が繁茂して堀を泳いでの侵入を阻んだという。平城でありながら、球磨川・前川・八代海という天然の要害に守られた、堅固な城だった。



八代城の整備状況
八代城は明治以降、二の丸・三の丸・出丸などの石垣が次々と取り崩され、特に昭和10年(1935)ごろの区画整理によって外堀の埋め立てが進んだ。残った石垣さえセメント工場へ売り払われようとしたというから、廃城後の荒廃ぶりは相当なものだった。昭和54年(1979)から57年(1982)にかけて本丸石垣の修復工事と発掘調査が実施され、保存への取り組みが本格化した。
現在は水堀に囲まれた本丸跡が市民公園として整備され、天守台・石垣・堀が往時の面影を残している。平成26年(2014)3月には、古麓城跡・麦島城跡とあわせて「⼋代城跡群 古麓城跡 ⻨島城跡 ⼋代城跡」として国指定史跡となった。八代市初の国指定史跡であり、複数の城跡をひとつにまとめて指定した熊本県内初の事例でもある。
参考文献:
- 『日本城郭大系15』城郭資料(新人物往来社)
- Webサイト「八代城」(八代市立博物館)
- リーフレット『八代城』(八代市立博物館友の会)
八代城の撮影スポット・絶景ポイント
八代城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、八代城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
八代城周辺の観光スポット・史跡めぐり
本成寺にある移築城門
本成寺には八代城本丸の表枡形門にあった高麗門「欄干橋門」が移築され、城門の遺構として現在に伝わっている。
八代城から広がる城めぐり
熊本県の名城
熊本県に残る多彩な名城をめぐり歴史をたどる。
八代城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:熊本県八代市松江城町7 [地図を見る]
県別一覧:[熊本県の城]
電話:0965-34-5555(八代市教育委員会)
アクセス
鉄道利用
JR鹿児島本線、八代駅下車、バス10分「八代宮前」降車すぐ
マイカー利用
九州自動車道、八代ICカラ西ヘ10分(5.5km)。
地図
八代城:城ファンの知見と記録
八代城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全4件)。






八代城で使用されていた胴木が、2022年9月25日まで、お祭りでんでん館で公開される。市役所新庁舎建設に伴う発掘調査で出土したもので長さ約3.5mの規模。
記録:shirofan 2022
八代市松江城町にあり、八代市役所のすぐ西隣にあります。まずはグルリと一周しようと、水堀越しから外郭を歩きまわり、更に石垣で囲まれた塁上を歩きまわりました。塁上を歩き回っていると、各櫓や門跡の場所に標柱や説明板があります。これだけ連続で石垣の立派なお城を見ると、大満足な気分を通り越して、お腹一杯ではちきれそうといった気分。すっかり楽しんだ後、水堀越しに橋と石垣が入るナイススポットで写真を懸命に撮ったり、普通の銀塩カメラでも自分も入れて記念写真を撮ろうと、タイマーセットしてたりしたら、余程、異様な光景に見えたのか?車に乗っていたオジサマが私の姿を見て車を停め、近づいてきて話しかけてきました。
橋の擬宝珠の話から会話が始まり、城好きだと伝えると、なんとその方は麦島城の保存活動に関わる方でした。そのまま文化課まで案内していただき、資料や現地の背景を丁寧に教えてもらうことに。偶然の出会いから、城の歴史がぐっと身近に感じられた時間でした。旅先ならではのこうした縁が、城めぐりの醍醐味だとしみじみ思います。
記録:尾張ちえぞー 2003
八代城(松城城)は、地震で倒壊した麦島城を廃して加藤清正の子忠弘が築きました。しかし、元和五年(1632)改易となり、細川忠興が城主となり、忠興没後、筆頭家老松井氏が城主となり、明治まで続きました。よって、お城の建物は無いもの石垣、お堀は現在も良く残っています。お堀に着き出だした形の廊下橋門の石垣が印象的でした。城内には、現在神社が。その入り口にあたる橋の前に当時の城を描いた絵が石碑にして建ってました。なんか、今と違うなぁ、郭の形、気のせいかなぁ。お城の堀も広く、石垣も高い。石垣の枡形が見事です。なにわともあれ、ええお城です・城内を散策後、お城のお堀を一周。そして、八代市立博物館へ、中に入ると、なになに「平成10年度秋季特別展覧会 関ヶ原合戦と九州の武将たち」ほほーっ♪美濃という土地柄、関ヶ原ものにはわりと目が無いのでそく購入。展示物をさっと見学、刀のつばなどの特別展?がやってました。ゆっくり、二時間程過ごし、麦島城を探しに。
記録:たぐち@東美濃 2002
八代城は八代の中心部であり八代市役所の隣。本丸等の遺構はありませぬが、石垣がしっかり残っており、石垣の中は公園、八代宮等でござる。熊本城にはかないませぬがなかなか石垣と堀は立派でござる。この城で不思議なことは石垣の端まで登れるということでござる。普通は管理者が危険とし、柵を設けたり、立ち入り箇所を制限したりするところでござるが、東西南北どの石垣の縁沿いに一週できまする。今日も日曜で散歩者や昼寝人がたくさんおりました。
記録:龍泊 2001