引田城の歴史・見どころ

引田城の歴史

引田城(ひけたじょう)は、瀬戸内海交通の要地となった引田浦を望む城山に築かれた。『日本城郭大系』では初期の城主を四宮右近とし、『南海通記』には、阿波の三好氏が数十艘の船で引田浦へ押し寄せた際、寒川元家の麾下にあった四宮右近が三本松の白髭玄番とともに防戦したことが記される。寒川氏は引田浦を拠点として船を出し、勘合貿易にも参加するなど勢力を築いた。

元亀元年(1570)、寒川氏は阿波三好氏の圧迫を受け、大内郡とともに引田城・虎丸城を明け渡し、三好長治の家臣・矢野駿河守が引田城主となった。天正7年(1579)には矢野駿河守が阿波岩倉城主・三好式部少輔の謀略によって討たれ、その後は土佐の長宗我部元親が讃岐への侵攻を進めた。

十河城主・十河存保は豊臣秀吉に援軍を求め、秀吉は仙石秀久を引田城へ入れた。仙石勢は十河存保、雨滝城主・安富肥前守らとともに長宗我部勢を迎え撃ったが、天正11年(1583)4月に敗れた。その後も長宗我部氏は勢力を広げ、四国をほぼ平定するに至った。これに対して秀吉は元親に伊予と讃岐の返上を求めたが交渉は決裂。天正13年(1585)、秀吉は弟・秀長らの大軍を四国へ送り、元親は各地で迎え撃ったものの抗しきれず降伏し、土佐一国を領して秀吉に仕えた。

四国平定後、仙石秀久は秀吉から讃岐を与えられた。しかし翌天正14年(1586)、九州征伐に出陣し、戸次川の戦いで島津軍に大敗する。この戦いでは十河存保や長宗我部元親の嫡男・信親らが戦死し、仙石秀久は敗戦の不覚を秀吉に責められて讃岐を没収された。続いて尾藤知宣が讃岐を与えられたが、天正15年(1587)の九州での戦いをめぐって秀吉の怒りを買い、讃岐を没収された。

同年8月、赤穂城主だった生駒親正が讃岐の領主となった。『日本城郭大系』では親正がまず引田城へ入り、ほどなく讃岐東端に偏った立地から宇多津の聖通寺城へ移ったとする。一方、発掘調査では石垣や礎石建物、瓦などが確認され、現在残る城郭の主要な姿は17世紀前後に形成されたと考えられている。調査報告書では、生駒氏の統治期に引田城が讃岐支配の拠点として整備された可能性を指摘する。引田城には城代が置かれたが、元和元年(1615)、一国一城令によって廃城となり、城としての機能を終えた。

引田城の特徴と構造

引田城は、引田港を囲むように瀬戸内海へ突き出した標高82mの城山に築かれ、城域は約600m×500mとされる。半島の付け根から引田市街地にかけて低地が広がり、海と急斜面を利用した立地を特徴とする。城内は東櫓・南櫓・西櫓・北櫓跡を中心とする複数の曲輪から構成される。

最高所から海側へ延びる東櫓跡の一帯には三段の曲輪が連なり、本丸にあたる主要部と考えられている。西側には中津の丸、五台の丸が続き、五台の丸と中津の丸の間には、玄関谷へ通じる通路が通る。南側には本曾丸、北側には丹後丸と呼ばれる曲輪があり、丹後丸は約1500㎡の平坦地をもつ。

現在も本丸、南二の丸、北二の丸、東の丸などに石垣が残り、とくに東の丸では野面積みの石垣を確認できる。城内の石垣は総延長約600mに及ぶ。発掘調査では曲輪から建物の礎石や多数の瓦が出土し、瓦葺きの礎石建物が存在したことが明らかになっている。このほか、大手門跡や化粧池など城内各所の遺構や地形が残り、山上に展開した城郭の構成をたどることができる。

引田城 狼煙台跡からの引田港
狼煙台跡付近から望む引田港。引田城が築かれた城山は瀬戸内海へ突き出し、眼下には引田の町と港が広がる。海に面した城の立地を実感できる眺望。
引田城 本丸石垣
南二の丸奥の最高所に位置する本丸の石垣。本丸と考えられる一帯には複雑に屈曲する塁線や外枡形が設けられ、引田の町からよく見える位置を占める。
引田城 天守台(天守相当の櫓推定地)
南二の丸にある天守相当の櫓推定地。南二の丸の奥に位置し、この一帯は引田の町からよく見える場所にあたる。
引田城 化粧池石垣
城山の谷筋を堰き止めて水を確保した化粧池の石垣。周囲を海に囲まれた岩山で水を蓄えるために設けられた施設で、石積みの一部には宝篋印塔の笠が転用されている。
引田鼻灯台
城山から瀬戸内海を望む引田鼻灯台。引田城の散策路を巡る途中にあり、海へ突き出した城山の地形を感じられる場所。
引田城 東の丸石垣
上下2段の曲輪からなる東の丸の石垣。上下の曲輪を囲む石垣が連続するように築かれ、発掘調査では上段の曲輪から鯱瓦が出土している。
引田城 北二の丸下段の高石垣
北二の丸下段に残る高さ5~6mの高石垣。間詰め石が丁寧に詰められ、引田城のなかでも石垣がよく残る場所のひとつ。大手道を挟んで南二の丸の石垣と向かい合う。
引田城 北曲輪
尾根上を人工的に削平して築かれた北曲輪。石垣はなく、石垣を備えた織豊期の城郭へ整備される以前の、土づくりの中世引田城の遺構と考えられている。

引田城の整備状況

引田城跡は平成29年(2017)に「続日本100名城」に選定され、令和2年(2020)3月10日に国史跡に指定された。東かがわ市は平成16年度(2004)から平成25年度(2013)にかけて発掘調査を実施し、石垣や建物跡など城郭の実態が明らかにされてきた。城山では大正時代から昭和にかけて引田城公園として展望台や遊歩道などが整備され、現在は本丸、南二の丸、北二の丸、東の丸、化粧池などを巡ることができる。出土した陶器や瓦は東かがわ市歴史民俗資料館で展示され、令和8年(2026)4月6日からは、研究成果や残存遺構などをもとに制作された引田城の復元イラストも公開されている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系15』(新人物往来社)
  • 『東かがわ市内遺跡発掘調査報告書 平成16年度国庫補助事業報告書 引田城址』(東かがわ市教育委員会2005)
  • 「引田城」(東かがわ市)
  • 『引田城跡散策マップ』(東かがわ市教育委員会 生涯学習課)
  • 『広報なんこく』「特集 戦国武将 長宗我部元親」(南国市)
  • 『神郷公民館だより 令和3年2月号』「信長、秀吉の天下統一へのみちのり」(新居浜市)
  • 『香川県史 年表 別編Ⅱ 近世』(香川県)
  • 「天面山祭り」(大分市)

引田城のおすすめ散策コース(順路)

引田城散策マップ

登山口は「引田港側」と「田の浦キャンプ場側」の2ヶ所。引田港側から登り、本丸を経て反時計回りに、化粧池、引田鼻灯台、東の丸、南二の丸、北二の丸、北曲輪とぐるりと巡り、田の浦野営場側へ下山するコースがよい。城内の遊歩道や各曲輪の位置は、一般社団法人東かがわ地域経営機構の「引田城跡パンフレット」に掲載された散策マップで確認でき、PDFで閲覧できる。

引田城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

讃州井筒屋敷

讃州井筒屋敷引田城とあわせて立ち寄りたい、城下の讃州井筒屋敷。江戸時代から醤油と酒造りを営んできた商家を活用した施設で、母屋を見学しながら、引田の町が育んできた歴史や暮らしに触れることができる。館内には引田城のパネル展示もあり、縄張図とともに城の見どころを知ることができる。

引田城の撮影スポット・絶景ポイント

引田城 狼煙台跡付近から望む引田港引田城は瀬戸内海を望む眺望も大きな魅力なので、海や引田港を撮影するなら晴天の日を選びたい。一方、石垣などの遺構は、木漏れ日が当たると石垣の表面にまだらな影が生じ、石の質感や積み方をきれいに捉えるのが難しい。遺構を中心に撮影するなら、直射日光の当たらない時間帯か曇天がおすすめ。この城のメインカットともいえる北二の丸の石垣は、晴天なら日が回り込む前の午前中に撮影したい。

引田城周辺グルメ・名物料理

かめびし屋

かめびし屋引田の町並みに店を構える老舗の醤油蔵。宝暦3年(1753)の創業で、むしろの上で麹を育てる伝統的な「むしろ麹」を守りながら醤油造りを続けている。讃州井筒屋敷の北側にあり、城下散策とあわせて立ち寄りやすい。ここで購入した「古醤油五歳造」は濃厚な旨みが印象的で、とくに刺身との相性がよかった。以来、我が家では刺身用の醤油として愛用している。

ハマチ料理

引田はハマチ養殖発祥の地として知られ、城めぐりとあわせて味わいたいのがハマチ料理。安戸池周辺では、刺身や丼などで楽しむことができる。瀬戸内海を望む引田城を歩いたあと、引田ならではの海の味を楽しみたい。

引田城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:香川県東かがわ市引田 [地図を見る]

県別一覧:[香川県の城]

電話:0879-26-1238(東かがわ市生涯学習課)

アクセス

鉄道利用

JR高徳線「引田駅」下車、徒歩約20分。

マイカー利用

高松自動車道「引田IC」から約5分。引田城跡駐車場有り(無料・28台)。

地図