松山城は、慶長7年(1602)に加藤嘉明が築城を始めた、松山市街を見下ろす勝山の平山城。安政元年(1854)に再建された天守は現存12天守の一つで、本壇を囲む櫓や門、高石垣、登り石垣など見どころも多い。城内の遺構や建築、撮影スポット、アクセス、周辺情報を写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
松山城の歴史・見どころ
伊予松山城の歴史
伊予松山城を築いたのは、豊臣秀吉のもとで「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名を上げた加藤嘉明。嘉明は文禄4年(1595)に伊予国正木(松前)を居城とし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に属して戦功を挙げ、伊予20万石を領する大名となった。
嘉明は新たな居城として道後平野の中央に位置する勝山を選び、慶長6年(1601)に築城許可を得ると、翌慶長7年(1602)1月、重臣の足立重信を普請奉行として築城に着手した。勝山は標高132mの独立丘陵で、山頂を本丸、南西の山裾を二之丸、その南西側の平地を三之丸とする大規模な平山城が計画された。築城に伴って湯山川(現在の石手川)の流路を付け替えるなど、城下町の建設を含めた大規模な土木工事も進められた。慶長8年(1603)、嘉明は正木城から新城へ居を移し、この地を「松山」と命名した。
築城工事はその後も続き、山頂には五層の天守を中心とする本壇が築かれ、石垣や櫓、城門の整備も進められた。しかし嘉明は城郭全体の完成を見ることなく、寛永4年(1627)、会津40万石へ転封となる(会津若松城)。代わって出羽上山(上山城)から入封した蒲生忠知が工事を引き継ぎ、二之丸を完成させるなど城郭を整えた。寛永11年(1634)に忠知が急逝して蒲生家が断絶すると、翌寛永12年(1635)、徳川家康の甥にあたる松平定行が伊勢桑名から15万石で入封。以後、久松松平氏14代の居城として明治維新を迎えた。
五層であった天守は寛永19年(1642)に三重へ改築されたと伝わる。この天守は天明4年(1784)元旦の落雷によって焼失した。再建は容易には進まず、文政3年(1820)の再建計画断念を経て、弘化4年(1847)に工事へ着手。安政元年(1854)、三重三階地下一階の天守が落成した。これが現在まで残る天守で、現存12天守の一つに数えられる。
明治3年(1870)に三之丸、明治5年(1872)には二之丸が焼失し、明治6年(1873)の廃城令を経て、翌明治7年(1874)に本丸一帯が公園として公開された。大正12年(1923)、旧藩主家当主の久松定謨から松山市へ城郭が寄贈されたが、昭和8年(1933)の放火や昭和20年(1945)の戦災、昭和24年(1949)の火災によって、小天守や櫓、門など多くの建造物を失った。その後、昭和33年(1958)以降、失われた建物の復興が進められ、現在は天守をはじめ21棟の建造物が国の重要文化財に指定されており、復興建造物や石垣、堀などとともに、近世城郭としての壮大な姿を伝えている。
伊予松山城の特徴と構造
伊予松山城は、松山平野の中央にそびえる標高132mの勝山を利用した平山城。山頂に本丸、その南西の山裾に二之丸、さらに南西側の平地に三之丸を配する。本丸北部には約8m高い本壇を設け、天守・小天守・隅櫓・多聞櫓などを集中させた連立式天守を構成する。
城内は勝山の地形を巧みに利用し、曲折する登城路や枡形、城門、櫓などを幾重にも配して、大手・搦手ともに厳重な防御を施している。二之丸と本丸の間には、山腹を縦に遮断する「登り石垣」が築かれ、山上を取り巻く大規模な石垣群とともに松山城を特徴づける重要な遺構となっている。現存天守だけでなく、こうした曲輪や虎口、石垣、櫓・門を通して、近世城郭の防御構造を立体的に見ることができる。
また、松山城では、天守をはじめ江戸時代から残る建造物と、昭和期以降に復興された櫓や門が一体となって城郭景観を形づくっている。現存建築と復興建築を意識して歩けば、火災や戦災を経て受け継がれてきた松山城の姿も見えてくる。
本壇

本壇は本丸北部に設けられた城の中枢で、本丸よりさらに約8m高く石垣を築き、その上に天守、小天守、南北隅櫓、多聞櫓などを配置する。出入口は一ノ門の1か所に絞られ、内部でも複数の門と枡形を通過しなければ天守へ到達できない。連立式天守と石垣、門、櫓が一体となって防御を固める天守曲輪となっている。
一ノ門から二ノ門に至る枡形


本壇への入口となる一ノ門は、高麗門形式の重要文化財。一ノ門を抜けると二ノ門との間に方形の枡形が設けられ、周囲の櫓や塀から侵入者を攻撃できる構造となっている。天守へ至る直前まで門と石垣を重ねた、本壇の厳重な防御をよく示す場所だ。
筋鉄門

筋鉄門は、天守玄関のある本壇中庭を守る櫓門。上部の櫓は小天守と大天守をつなぎ、三ノ門方面から侵入する敵を正面から攻撃できる位置に置かれている。本壇内部をさらに区画し、天守への侵入を阻む重要な門だ。
本壇中庭

本壇の諸門を抜けると、天守、小天守、隅櫓などに囲まれた中庭へ入る。周囲を城郭建築が取り囲む閉鎖的な空間で、ここからは大天守と小天守、それらを結ぶ建物の位置関係を間近に確認できる。また、天守群への入口は3か所あり、玄関多聞櫓に設けられた玄関、天守台の穴蔵、南多聞櫓から入る構造となっている。
天守最上階


天守は三重三階地下一階の層塔型で、安政元年(1854)に落成した現存12天守の一つ。最上階は四方に視界が開け、標高132mの勝山山頂から松山市街や松山平野を一望できる。内陣の南西隅には床の間が設けられている。
天守二階

松山城天守の特徴の一つが、城郭建築としては珍しく居室化が進んだ内部構造にある。二階には棹縁天井が張られ、床の間や襖を入れるための敷居も設けられている。畳を敷くことも可能な造りとなっており、防御施設である天守にこうした意匠が取り入れられている点が興味深い。写真右手は床の間。
天守一階

天守一階は周囲に武者走りを設け、格子窓や突揚戸などを備えた防御的な構造を持つ。一方、内陣には天井や床の間が設けられるなど、居室的な造りも見られる。内部では歴代城主に関係する甲冑や刀剣、古文書なども展示されている。
天守穴蔵(地階)

天守の地下には穴蔵と呼ばれる地階が設けられている。『日本城郭大系』では、俗に「米蔵」と呼ばれていた部分と記されており、入口には鉄板張りの扉を備える。内部には太い柱や梁が用いられ、天守を支える重厚な構造を見ることができる。三重三階の外観からは分からない天守の地下構造を確認できる場所となる。
玄関多聞櫓

玄関多聞櫓は、本壇北側を守る渡櫓で、天守へ通じる玄関を設けている。北隅櫓や内門と連なり、天守北側を守る重要な防御施設を構成する。内部には舞良戸が設けられ、格式を意識した造りとなっている。
北隅櫓と南隅櫓

本壇の搦手側には北隅櫓と南隅櫓が置かれ、その間を桁行10間の「十間廊下」と呼ばれる多聞櫓が結ぶ。三つの建物が一体となって搦手側の防御を担い、本壇を囲む連立式天守の構成を形づくっている。
搦手

本丸西側の乾門方面が松山城の搦手にあたる。乾櫓や野原櫓などが配置され、大手側との境には紫竹門と続塀を設け、搦手側の守りを固める。紫竹門から西へ延びる続塀では狭間の向きが途中から逆転し、大手側と搦手側の双方へ攻撃できる仕掛けが施されている。
本丸

本丸は標高132mの勝山山頂に築かれ、北側に天守を中心とする本壇、南側に大手門を置く南北に細長い曲輪。築城時には二つの峰を削り、その間の谷を埋めて平坦地を造成したと伝わる。周囲には高石垣を築き、櫓や門、塀を連続させて防御を固めている。
戸無門・筒井門

戸無門は大手口に現存する重要文化財の高麗門で、当初から扉が設けられておらず、鏡柱にも扉を取り付けた痕跡がない。ここを通った侵入者は正面の筒井門へ導かれる。筒井門は本丸最大の門で、隠門と組み合わせて大手口の守りを固めている。
隠門

隠門は筒井門東側の石垣の陰に設けられた門で、筒井門へ向かう敵の背後を攻撃するための構えを持つ。正面からは見つけにくい位置に置かれ、戸無門、筒井門と組み合わせた松山城大手口の巧妙な防御構造を伝えている。
大手門跡

大手門跡は、二之丸から黒門口登城道を登った先に位置する本丸大手の入口。現在は門を失い、石垣と礎石が残る。ここから先は高石垣に沿って進路が複雑に折れ曲がり、戸無門、筒井門、太鼓門などを経なければ本丸へ入れない。地形と石垣を利用した松山城の防御構造を体感できる場所となっている。
登り石垣

登り石垣<は、山腹から侵入する敵を防ぐため、麓の二之丸と標高132mの本丸を山の斜面に沿って石垣で結んだ防御施設。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して築かれた倭城に見られる築城技術とされる。松山城では南側がほぼ完全な状態で残り、総延長は約230mに達する。現存12天守の城郭では彦根城と松山城で確認される貴重な遺構となっている。
二之丸跡

二之丸は本丸南西の山裾、標高約40mの平坦地に築かれた曲輪で、加藤嘉明が縄張りし、蒲生忠知の時代に完成した。周囲には高石垣を築き、黒門や各種の櫓、仕切門などを備え、独立した城郭ともいえる防御施設を持っていた。内部には藩主の私的空間となる奥御殿と、政務を行う表御殿が置かれ、藩主の生活と藩政の中心として機能した。写真は二ノ丸表御殿跡に残る深さ9mの大井戸。
貞享4年(1687)に三之丸御殿が完成すると藩主の居所は三之丸へ移り、二之丸は嫡子の邸などとして使用された。明治5年(1872)に建物を焼失し、長く遺構のみとなっていたが、昭和59年(1984)から発掘調査が行われ、御殿の間取りや大井戸などが確認された。その成果をもとに整備が進められ、平成4年(1992)に「松山城二之丸史跡庭園」として開園。現在は表御殿跡や奥御殿跡の間取りが地表に示され、城門や塀なども復元されている。
三之丸跡

三之丸は二之丸南西側の平地に築かれ、現在の「堀之内」にあたる。周囲を土塁と水堀で囲み、藩主御殿や有力家臣の屋敷、政務施設などが置かれた。貞享4年(1687)に三之丸御殿が完成すると藩政の中心となった。現在も西・南側を中心に堀や土塁が残り、広大な三之丸の規模を伝えている。
伊予松山城の整備状況
松山城では、昭和33年(1958)の馬具櫓を皮切りに、小天守、南北隅櫓、筒井門、太鼓門、天神櫓、乾門など、焼失した建造物の復興が順次進められてきた。二之丸では発掘調査の成果をもとに史跡庭園が整備され、平成4年(1992)に開園。三之丸にあたる城山公園堀之内地区でも整備が進められ、平成22年(2010)に第1期整備が完成した。現在は第2期整備基本計画に基づき、北側の未整備地区を中心とした整備が進められている。
参考文献:
- 『日本城郭大系16』(新人物往来社)
- 『四国の城と城下町』(愛媛新聞社1994)
- Webサイト「四国・愛媛 松山城」(松山城総合事務所)
松山城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
松山城の関連書籍
堀之内に県立図書館があり、そこに松山市観光課刊『松山城』、松山市教育委員会刊『松山市史 近世 第2巻』が所蔵されている(数之進 1999.11.29)。
松山城の撮影スポット・絶景ポイント
城内の撮影スポット
標高132mの勝山山頂に本丸を置く松山城は、高石垣の上に櫓や門、天守が重なり、城塞らしいアングルを探す楽しさに事欠かない。広角レンズで石垣から天守までを大胆に収めるか、望遠レンズで建造物の重なりを切り取るかによっても印象は大きく変わる。ここでは天守や本壇を主役に、松山城らしい構造美を捉えられる2つの撮影ポイントを紹介したい。
一ノ門前から天守

一ノ門前は、門と石垣の向こうに天守を仰ぎ見る松山城らしいアングル。撮影距離が近いため広角レンズが欲しくなるが、城門、石垣、天守を重ねることで、本壇へ攻め入るような奥行きのある構図をつくることができる。天守だけを切り取るのではなく、一ノ門や石垣を画面に残すと、厳重な本壇の構造まで写真で伝えやすい。『日本城郭大系』の表紙にも、この付近から天守を捉えた写真が使用されている。
馬具櫓から本壇

本丸南側の馬具櫓付近からは、高石垣の上に本壇の天守群が連なる姿を望むことができる。かつて松山城を代表する写真としてよく知られたアングルで、石垣の量感と天守群を一緒に写せるのが魅力。画面下部に高石垣をしっかり入れることで、標高132mの山上にさらに石垣を築いて天守曲輪を構えた、松山城ならではの立体的な城郭構造が伝わる。
城外から望む遠景スポット
現地を訪れて意外に感じるのが、城下から天守を探す難しさ。松山城は標高132mの勝山山頂に本丸を構えるため、山麓に近づくほど山そのものに遮られ、天守群が見えなくなる場所も多い。
だからこそ遠景撮影では、城からどこまで距離を取るかがポイントになる。望遠レンズで山頂の天守群を引き寄せれば、城下を見下ろす松山城の高さが際立ち、広角で城山全体を入れれば、松山平野に独立してそびえる勝山の地形が見えてくる。ここでは代表的な4か所を紹介するが、市街地や周辺の高台には、このほかにも松山城を望める場所がある。
ホテルマイステイズ松山

ホテルマイステイズ松山は、城山全体と山頂の本壇を西側から望める撮影ポイント。特に午後から夕方にかけて、西日を受ける本壇の風景が美しい。客室からの撮影となるため宿泊が必要で、予約時には「松山城側」の部屋を指定しておきたい。撮影するなら12階あたりが絵的に理想で、城山と天守群のバランスが取りやすい。
城山全体を見せるなら24mm前後の広角、本壇を大きく引き寄せるなら35mm判換算で400mm前後が目安。焦点距離を大きく変えて撮り比べると、城山の広がりと、その頂に天守群を築いた松山城の立地がよく分かる。二之丸史跡庭園や山腹を走る登り石垣まで見渡せるのも、この方向から眺める面白さとなる。
なお、この場所からは「ホテルJALシティ松山」時代から撮影している。平成29年(2017)7月1日に「ホテルマイステイズ松山」へ名称を変更した後も、松山城の遠景撮影に利用している。
夜景などを長時間露光で撮影する場合は注意したい。高層階では三脚を使用していても、建物そのもののわずかな揺れによって写真がブレることがある。撮影後はモニターで拡大し、細部まで確認しておきたい。
撮影目安:松山城天守まで直線約800m/24mm前後(城山全体)・400mm前後(本壇)/午後
松山総合公園

松山総合公園の展望広場や展望塔からは、松山市街の向こうに勝山と松山城を望むことができる(展望塔頂上の標高が約141m)。城山全体を捉えれば、平野から独立して立ち上がる勝山と、その山頂に本丸を構えた平山城らしい立地がよく分かる撮影ポイントだ。
天守群をアップで狙うなら800mm前後の超望遠レンズが欲しい。望遠による圧縮効果を利用して市街地と城山、天守群を重ねるのも面白い。一方、少し引いて松山市街を大きく入れれば、「城と城下」という別の構図もつくれる。西側から松山城を望むため、天守群に光が回る午後の時間帯が狙いやすい。
撮影目安:松山城天守まで直線約2.3km/100mm前後(城山全体)・800mm前後(本壇)/午後
天山

天山神社が鎮座する天山(あまやま)は、標高約49mで、松山城築城に際して城地の候補となった場所としても興味深い。『日本城郭大系』によれば、加藤嘉明は天山、勝山、御幸寺山を候補として幕府に申請し、勝山への築城許可を得たと伝わる。松山城を撮影すると同時に、その築城地選定の歴史にも触れられる場所となる。
天山から本壇を大きく捉えるには、1000mm以上の超望遠レンズが欲しい。日中に比べて空気の揺らぎが少ない早朝を狙いたい。北方向を望むため、城の背後にドラマチックな雲を配する構図はつくりにくいが、かつて城地候補となった天山から現在の松山城を望む景観は、一見の価値がある。
撮影目安:松山城天守まで直線約3km/1000mm以上/早朝
いよてつ髙島屋

いよてつ髙島屋は、松山城本壇をほぼ真南から狙えるポイント。本壇の天守群をアップで捉えるなら、200mm前後の望遠レンズが使いやすい。南側から望むため、松山総合公園やホテルマイステイズ松山とは異なる天守群の重なりを撮影できる。
城を眺めるだけなら、屋上の大観覧車「くるりん」もおすすめ。城山のロープウェイ長者ヶ平駅とほぼ同じ高さから松山市街と松山城を望むことができ、高度が変わるにつれて城山と天守群の見え方も変化する。観覧車内から撮影する場合は、窓ガラスへの映り込みに注意したい。
撮影目安:松山城天守まで直線約1.7km/200mm前後/午前・午後とも可
松山城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、松山城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
松山城周辺の観光スポット・史跡めぐり
秋山兄弟生誕地
伊予松山は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で有名な、秋山好古・秋山真之ゆかりの地。ロープウェイ乗場近くの「秋山兄弟生誕地」へどうぞ。当時の写真を検証して建設された家屋や銅像がある。
愛媛県美術館分館 郷土美術館(萬翠荘)
県庁通りに旧松山藩主の子孫である伯爵久松定謨が建てた萬翠荘なるフランス風別邸があり、摂政宮裕仁親王(昭和天皇)もお泊まりになった。もちろん見学可能(愛媛県立美術館別館)(投稿者:数之進)。
湯築城跡
最も近い城、湯築城跡へは徒歩または路面電車で。ちなみにすぐ近くに道後温泉本館がある。
松山城周辺グルメ・名物料理
夏のあつーい時に、松山城下を見ながら食べるかき氷を最高。お店のおばっちゃんは、結構親切(投稿者:うんの)。または伊予鉄道(路面電車)の「松山市駅」横のいよてつ高島屋上階のレストラン。松山城を真南から眺望できる。眺望なら屋上の観覧車に乗るのも良い。
松山城周辺ホテル・宿泊情報
松山城を眺めながら滞在するなら、ホテルマイステイズ松山がおすすめ。一部の客室から城山と山頂の天守群を望むことができるため、宿泊予約の際は「松山城側」の客室を指定しておきたい。1階のレストラン「瀬戸内バル ラ・テラッツァ」からも松山城を望める。
特に眺望にこだわらず、松山らしい旅情を楽しむなら道後温泉へ。温泉街には旅館やホテルが集まり、城めぐりのあとに湯に浸かって一日を締めくくるのもいい。松山城を歩いた余韻のまま、道後で一夜を過ごすのもおすすめだ。
松山城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:愛媛県松山市丸之内 [地図を見る]
県別一覧:[愛媛県の城]
電話:089-921-4873(松山城総合事務所)
開館時間
天守
【観覧料】大人520円、小人(中学生以下)160円
【観覧時間】※札止めは営業終了の30分前
・2月~7月、9月~11月:9:00~17:00
・8月:9:00~17:30
・12月~1月:9:00~16:30
※休館日:12月第3水曜日(大掃除のため)
ロープウエイ
【料金】往復券520円、片道券270円(※リフトと共通)
【運行時間】約10分間隔で運行(所要時間:約3分)
・2月~7月、9月~11月:8:30~17:30
・8月:8:30~18:00
・12月~1月:8:30~17:00
※山上「長者ヶ平」から天守入口まで徒歩約10分。
リフト
【料金】往復券520円、片道券270円(※ロープウエイと共通)
【運行時間】通年 8:30~17:00(所要時間:約6分)
※雨天時は運休あり。山上「長者ヶ平」から天守入口まで徒歩約10分。
アクセス
鉄道利用
伊予鉄道市内電車(路面電車)、大街道駅下車、徒歩約5分でロープウエイのりば(東雲口駅)、ロープウエイ約3分。
または、JR松山駅から徒歩20分で堀之内、二之丸庭園まで徒歩15分、そこから登山で本丸広場まで徒歩35分。
マイカー利用
松山自動車道「松山IC」から国道33号線経由で北へ約7km(約20分)。
駐車場
松山城駐車場(喜与町駐車場 / 愛媛県松山市喜与町1丁目6-12)
【料金】普通車 2時間420円(以降30分ごとに100円)
【利用時間】8:00~ロープウエイ営業終了時間の30分後まで
※ロープウエイのりば(東雲口駅)まで徒歩約2分。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
松山城:城ファンの知見と記録
松山城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全9件)。







ライトアップは、昭和24年から行われてきたが、平成23年3月からLEDライトに変更された。平成27年10月27日から、さらにLEDを10基増設、南隅櫓、北隅櫓もくっきりしたそうな。
記録:松山城ばんざい 2015
松山城は夏の恒例行事で、野原櫓、乾櫓、隠門続櫓などの普段非公開の櫓が、特別公開されることがある。
記録:shirofan 2015
現在三の丸跡地にあった野球場、ガンセンターは移転され広々とした緑地になっています。そこから二ノ丸庭園やお城が眺められそれはそれでいい感じです。
記録:風 2015
現存12天守のひとつで、平山城の比高において最も高い位置にある。
記録:shirofan 2000
松山城を松山市に寄贈したのは、最後の藩知事従五位久松定昭の養嗣伯爵久松定謨(さだこと)ですが、それを顕彰した石碑が、本丸艮櫓付近にあります。顕彰碑だけなら問題ないのですが、その字を書いた人が、徳川将軍家17代当主徳川家正です(現18代当主恒孝の養父)。来城した時、ご覧になって下さい。
記録:数之進 1999
なんと、天守落雷時(天明4年)の城主は、老中松平越中守定信の兄です。つまり9代藩主松平隠岐守定国(徳川宗武男)の時で、定国は城内三之丸(現国立ガンセンター)におり、お城下の法龍寺(現中の川通り)に避難したということです。その天守の再建落成式が挙行されたのは、1853年で実に70年近くの時間が要されたのでした。時の藩主は12代松平隠岐守勝善で、彼は定国の養曾孫にあたるのです。ほんと、松山城は定国以下歴代の並みならぬ努力の賜物です。大切に見学したいですね。
記録:数之進 1999
松山城本丸(標高132m)へは、ロープウェイ・リフトあるいは、徒歩で登ることになる。同じ平山城である熊本城の約2.6倍、姫路城の約3倍の高さ。彦根城は136mだが、幕府普請であることを考慮すれば、一大名の居城としてこれだけの規模の城郭を築いた加藤義明の並々ならぬ意気込みが本丸に近付くごとに伝わってくる。
記録:城山神々 1998
度重なる火災、戦災により多くの建造物を失っているが、往時を偲ばせる本丸は木造による復元を心掛けた松山市の努力による賜物。二の丸跡の中学校が廃校後発掘 調査を行い、門・多聞・土塀を復元している。今後の復元構想には愛媛県も乗り出すなど、現在進行中の城郭整備は他城のお手本といえる。願わくば、三の丸跡の球場や美術館を撤去し旧情に復していただきたい。
記録:城山神々 1998
構造的には層塔型である天守は、直線的な破風、最上層の高欄、初層・二層目の腰高下見板、連子窓に付く突揚板など、外観の意匠は幕末再興とは思えぬほど古式。 天明四年に焼失した天守を忠実に再現したのだろうか。ならば、これが復元城跡松山のはじまりとも言える。
記録:城山神々 1998