写真:岡 泰行

久保田城の歴史と見どころ

久保田城(くぼたじょう)は日本100名城にも数えられる秋田市の城だ。築城したのは、初代久保田藩主の佐竹義宣である。佐竹氏は清和源氏の一族で戦国時代から豊臣秀吉の治世にかけ常陸国(ひたちのくに)に覇を唱えていた。しかし、関ヶ原の戦いの際、東軍のために積極的に動かなかったこともあり慶長7年(1602)、出羽国(でわのくに)への転封を命じられる。義宣は新しい城地を久保田(当時は窪田)にあった標高約40mの神明山(しんめいやま)に定め、翌年から普請をはじめ、完成をみたのは慶長9年(1604)であったという。

久保田城本丸跡にある最後の藩主、佐竹義堯の銅像
久保田城本丸跡にある最後の藩主、佐竹義堯の銅像。平成元年に市制百周年記念事業の一環として復元された。

久保田城は天守がないが、本丸の南西に「御出し書院」という単層の櫓が置かれたほか、4棟の隅櫓、5棟の多聞櫓があった。また、各郭は石垣ではなく、石積みの上に土塁を築く鉢巻土手と呼ばれるもので防御されていた。城の普請に平行して、城下町の整備も行われている。藩政時代、本丸の建物は火事で何度か焼失したがその度に再建された。

慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争では、久保田藩は一時期、新政府軍に抵抗した東北・北越諸藩の連合体、奥羽越列藩同盟に加わるも同年7月、一転して新政府軍へと転じた。このため、仙台藩や庄内藩などに攻め込まれ、藩士や領地内に多くの被害が生じている。

廃藩置県後は陸軍管理の後、佐竹氏に払い下げられた。昭和59年(1984)には当主の佐竹義栄から秋田市に寄贈されている。現在、千秋公園(せんしゅうこうえん)の名で、広く市民や観光客に親しまれる史跡となっている。黒門跡から登城すると、御物頭御番所や復元された表門など実に城らしい演出を目にするが、なによりも本丸が広大で、最高所の北西にそのシンボルである御隅櫓が復元されている。

久保田城の復元された表門
文献や発掘などを元に平成11年から2カ年計画で再建された表門。本丸の正門で一ノ門とも呼ばれていた。

久保田城御物頭御番所
御物頭御番所は唯一残る藩政期の建物で城内の警備などを担当した物頭の詰所。

久保田城の二の丸東御門(黒門)の跡の虎口
二の丸東御門(黒門)の跡の虎口。藩政期には、ここを通るのが正式な登城ルートだった。

久保田城の撮影方法

久保田城は、代表するようなアングルの遠景ショットが無いと言っていい。都市の中心にありながら、ホテルなど周囲の高いビルからの眺望は期待できない。これは、公園内の木々が成長しているため、御三階櫓が遠景で見えにくいためだ。公園内から撮るショットがメインカットとなる。また、久保田城のライトアップは、桜祭り期間と夏休み期間のみ(2019年現在)。

久保田城のアクセス・所在地

所在地

住所:秋田県秋田市千秋公園1-10 [MAP] 県別一覧[秋田県]

電話:018-832-1298(久保田城御隅櫓)

開館時間

久保田城の城域(千秋公園)は散策自由。御隅櫓は市政100周年を記念して復元された資料館で9時〜16時30分まで。12月1日から翌年の3月31日は休館。城域は広く、全ての曲輪や門跡をくまなく巡るなら1日必要になる。

アクセス

鉄道利用

JR奥羽本線、秋田新幹線「秋田駅」下車、徒歩15分。

マイカー利用

秋田自動車道秋田中央ICより20分。

城ファンの気になるところ (8)

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    久保田城、横手城、金沢ノ柵(現秋田県)に関するネタを見つけましたので以下にご参考のほど。それはコミック雑誌の講談社モーニング新マグナム増刊から『雪の峠』(岩明均)という漫画からなのですが、内容は関ヶ原で西軍の敗戦により出羽に領地替えされた佐竹家の話で、出羽領内に新たに築く本城築城にて、常陸依頼の旧家臣達と若い義宣の側近たちの対立する話です。城を戦のための砦とするか、行政のための役所とするか、鋭い視線で描かれていると思います。見所は秋田久保田城築城場面にて、作者が同地を良く取材した様で、築城の際の縄張りや、普請時の地取り場面が逸っしています。特に、城山を見上げる場面(現県立図書館前通り辺りからか?)や、城山から見下ろす場面(現茶室『宣庵』辺りからか?)など現地を見事に再現しています。

    ( 鬼義重)

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    久保田城御隅櫓の展示室が3/15まで冬季休業とのことなので、吹雪の中白い雪道を踏みながら本丸八幡神社へ詣でる。そのまま佐竹資料館へ直行しました。入り口に入ってすぐに佐竹義久の書簡が展示されてあり、中では企画展として雛人形と調度品が展示してありました。佐竹義宣公の絵図で着用されたと思われる鎧兜と絵図で義宣公が足と組んで座っていたと思われる鎧箱が展示してありました。また、佐竹義重公着用かと思われる黒漆鎧と、前立が毛虫の兜が展示してありました。その他、ここでしか買えない書籍資料を買ってまいりました。『佐竹義宣と秋田新時代』『久保田城跡探索』『久保田城下内町と参勤交代の道を行く』『天徳寺の歴史と佐竹氏』(上、中、下巻)。

    ( 鬼義重)

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    「千秋公園再整備基本計画」の一環として、久保田城表門が古い文献や絵図、表門跡地の発掘調査などをもとに、復元されています。高さ12.29メートル、横10.92メートル、奥行き5.46メートルの2階建ての櫓門。2階部分の壁は、白い漆喰に柱が映える真壁作り。瓦葺きの屋根で建築費用は約3億円。

    ( 岩峯慎一)

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    平成13年春頃、表門が復元予定、久保田城に新たな名所ができます。あと奥出し書院が復元すれば、秋田を代表する城になるはずです。

    ( 岩峯慎一)

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    明治23年(1890)久保田城跡を秋田市が佐竹氏から借り受て公園としたが、明治29年(1896)秋田県に移管され、造園家長岡安平(ながおかやすへい)の設計により整備された。昭和28年(1953)秋田市に移管、継続的に整備し管理されてきたが、昭和59年(1984)に佐竹氏から秋田市に寄贈されて、名実ともに市民の公園となり、桜、つつじなどの花の名所、緑あふれるいこいの場として市民に親しまれている。平成元年には「日本の都市公園100選」に選ばれている。秋田市では、市政100周年を記念し、平成元年から久保田城の復興を含めた公園整備が行われている。千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢文学者狩野良知(かのうりょうち)で、「千秋」の由来は、秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、長い繁栄を祈ったものと言われている。

    ( 蝦名)

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    久保田城は、秋田20万石佐竹氏の居城である。秋田初代義宣(よしのぶ)が、慶長7年(1602)常陸国水戸城(茨城県水戸市)54万石から國替となり、慶長8年現在地に築城し翌年に完成した。丘陵上に造られた久保田城は、天守閣をもたず石垣もなく、旭川を引いて内外の掘とし、周囲を土塁で囲んだ近世と中世を複合した平山城であった。廃藩置県の明治4年(1880)の火災で全焼した。同23年公園として開放され現在の千秋公園に至っている。佐竹氏は、平安時代の名門清和源氏の新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)の子孫で、義光の孫、昌義のとき常陸太田市(茨城県)の近くの佐竹郷に移り、佐竹氏を名のる。以来、460有余年、秋田へ國替になるまで、太田城(常陸太田市)、水戸城を本拠とし、久保田城の269年を通算して、約740年続いた日本最長の大名家である。

    ( 蝦名)

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    本丸には市制百周年を記念して鉄筋コンクリート三層四階建の御隅櫓があり、唯一残っている藩政時代の建物として御物頭御番所があります。ほかには佐竹義尭交像があります。 御隅櫓の中では佐竹氏の解説とパネル展示をしています。

    ( 伊助)

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    御物頭御番所が唯一の現存建造物。その他、復興御隅櫓、門跡などが残る。もともと天守や石垣も無く、土塁のみの城。

    ( shirofan)

城の情報

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