鵜沼城の歴史・見どころ

鵜沼城(うぬまじょう)は、現在の岐阜県各務原市鵜沼の城山に築かれた戦国時代の山城で、城主は土豪の大沢氏と伝わる。木曽川が山間部から濃尾平野へ流れ出る地点に位置し、美濃と尾張を結ぶ交通の要衝を押さえる拠点だった。

築城の時期は明確ではない。室町時代後期の永享年間(1430年代)に大沢治利が築いたとする説や、16世紀前半頃に大沢正吉の時代に築かれたとする説があり、史料によって伝承が分かれている。ただし、いずれの場合も城の成立は室町末期から戦国期にかけての時代と考えられている。

鵜沼城が史料の中で注目されるのは、永禄年間(1558〜1570)の織田信長による美濃攻略の時期である。永禄8年(1565)、信長は木曽川を越えて美濃国へ侵攻し、斎藤龍興に属する鵜沼城と猿啄城の攻略を目標とした。『信長公記』によれば、信長は木曽川沿いの伊木山に砦を築き、美濃進出の足掛かりとした。

この情勢のなか、鵜沼城主とされる大沢次郎左衛門は城を守りきれないと判断し降伏したと伝わる。江戸時代の軍記物語『太閤記』には、豊臣秀吉が大沢を調略したという逸話も記されている。

その後の大沢次郎左衛門の詳しい動向は不明だが、天正10年(1582)や天正18年(1590)の文書に名が見える。城はこの頃にはすでに機能を失ったとみられ、その後史料にはほとんど登場しない。

なお、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉が鵜沼に布陣し、犬山への渡し場を押さえるため船を集めたと伝えられる。木曽川の渡河点を控えるこの地は、戦国期を通じて重要な戦略地点だった。

鵜沼城の特徴と構造

鵜沼城は、木曽川北岸にそびえる標高約90〜95mの城山の山頂に築かれた山城で、比高は約50m。城山は岩盤が露出した山で、「石頭山」とも呼ばれる地形をそのまま防御に利用している。

山の南側と東側は木曽川に面した断崖で、北側も急峻な斜面となる。攻め口となるのは西側の尾根だけで、ここに土居と堀の一部が残ると伝わる。

主郭は山頂部にあり、規模はおよそ15m四方程度とされる。城山北麓には家臣屋敷があったとされ、のちに畑となった場所は「柳縄手」と呼ばれている。また北側には三狐神の森があり、城主屋敷跡とする伝承が残る。

山頂からは木曽川流域を広く見渡すことができ、上流には猿啄城、西方には岐阜城方面も望める位置にある。木曽川沿いの交通と防衛を監視する拠点として築かれた城だった。

参考文献:

  • 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
  • 各務原市Webサイト「鵜沼城」

鵜沼城の整備状況

現在、鵜沼城跡は各務原市鵜沼の城山一帯に位置し、山頂部に主郭跡があるとされる。木曽川に面した断崖の地形は現在もよく残り、城の立地を感じることができる。

城山は近代以降別荘や「城山荘」という旅館が営まれていたが、昭和47年(1972)に焼けてしまい、その後、経営者による加害事件が起こるなどし、旅館はその後、都築紡績の持ち物となるが、経営不振に陥ったため放置された。平成14年(2002)、各務原市が土地も含めて買い取り、その後、公園化する計画もあるようだが、進んでいないらしい。現在、城址は立ち入り禁止となっており、その山容のみ見ることができる。また、犬山は昼鵜飼いで有名だが、その船に乗ると、実際に利用されていたかどうかは定かではないが、岩山の北側にある船だまりと見られる入り江を見ることができる。

鵜沼城の岩山に見られるかつての旅館テラス跡
岩山の水面近くには、旅館のテラスのような跡がある。断崖なので、おそらくはここへ、岩山をくりぬいた階段かもしくはエレベーターのようなものがあったのだろう。

鵜沼城の撮影スポット・絶景ポイント

鵜沼城の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、鵜沼城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

鵜沼城周辺の観光スポット・史跡めぐり

対岸の犬山城など。

鵜沼城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:岐阜県各務原市鵜沼南町7丁目

県別一覧:[岐阜県の城]

電話058-383-1111(各務原市役所)

アクセス

鉄道利用

JR高山本線、鵜沼駅下車、徒歩5分。または、名鉄各務原線、犬山駅または新鵜沼駅下車、ともに徒歩5分。