写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
唐沢山城の歴史と見どころ
唐沢山城(からさわやまじょう)は、下野国佐野の北方にそびえる標高247mの唐沢山に築かれた山城で、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷が天慶3年(940)に築城を始め、同5年に落成したと伝わる。秀郷の子孫は小山氏・足利氏(藤姓)をはじめとする有力武士団となった。
唐沢山城はやがて一度廃城となるが、のちに足利信綱の弟である成俊が佐野荘司と称し、佐野氏の居城として再興した。佐野氏は鎌倉時代には幕府御家人として活躍したが、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦氏に与して敗れ、一時衰退する。
戦国期に入ると、佐野氏中興の祖といわれる佐野盛綱が唐沢山城を修築し、以後、関東の有力国衆として再興を果たした。永禄4年(1561)、上杉謙信が攻め寄せて以来、唐沢山城は上杉・北条・武田の勢力が交錯する関東戦国史の舞台となる。佐野昌綱・宗綱父子は激しい攻防を繰り広げたが、天正13年(1585)に宗綱が須花坂で討死し、家中は動揺。北条氏照らにより佐野領は制圧され、北条氏康の六男・氏忠が養子として佐野家を継ぐ形で北条の支配下に組み込まれた(氏忠は入城せず城代が置かれた)。
その後、豊臣政権下で天徳寺了伯(佐野房綱)が秀吉に従って小田原征伐に功を挙げ、城代の大貫氏を討ち、唐沢山城を奪還した。房綱は三万九千石を安堵されて城主となり、城の大改修を施した。現在に残る石垣は、この房綱による改修期の築造とされる。房綱は2年で隠居し、家督を秀吉の家臣富田氏の次男・佐野信吉に譲った。
慶長7年(1602)、佐野信吉は突如として唐沢山城から春日岡(現・佐野城)への移転を命じられ、唐沢山城は廃城となった。中世から近世へ移り変わる戦国の終焉を見届けた城である
唐沢山城の特徴と構造
唐沢山城は、標高247mの山頂部を本丸とし、自然の地形を巧みに利用した山城である。西から東にかけて大手・天徳丸・三の丸・二の丸・本丸などがほぼ一直線に配置されている。本丸の南側には南城が展開する。大手は西、搦手は東に開かれている。
城の構造は堀切や石垣、石塁を巧みに組み合わせ、自然の地形を防御線として活かしている点が特徴だ。本丸跡には現在、唐沢山神社が鎮座し、石垣の一部が良好に残る。南城・二の丸跡にも同様の石垣が見られ、これらはいずれも佐野房綱による改修期の築造とされる。天徳丸の北側には大炊井戸が残り、大手筋には喰い違いの枡形を備え、戦国末期の技巧的な縄張を今に伝えている。関東における中世山城の典型的な姿を良好に留めた遺構といえる。
参考文献:
- 『日本城郭大系4』(新人物往来社)
唐沢山城の撮影スポット
唐沢山城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、唐沢山城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。唐沢山城の周辺史跡を訪ねて
足利氏館、佐野城あたりをどうぞ。または井伊直弼の墓。
唐沢山城の観光情報・アクセス
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
唐沢山城:城ファンたちの記憶
実際に唐沢山城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全4件)。




唐沢山城本丸西側の虎口に鏡石がある石垣があるが、これを解体調査するとのこと。
( 城好きの匿名希望)
関東七名城のひとつ、唐沢山城。上杉謙信も落とせなかった、難攻不落の城。織田信長、豊臣秀吉も一目置いていたとか。 天狗岩、さくらの馬場。歴史館にある、織田信長から頂いた兜は必ずみるべし!
( TakeC)
むかでたいじで有名な藤原秀郷公いらい続く名家である佐野氏のお城。天明の大火が城から見えたために江戸幕府から「江戸を見下すとはけしからん!」と潰されてしまった悲しいお城。
( 亀田泰志)
山城なのでハイキングがてら登と各所に古い石垣が楽しめます。頂上には藤原秀郷公を祭った唐沢神社が現存しており、昔を偲ぶことができます。天気のよい日には江戸を見下せますので、一度行ってやってください。
( 亀田泰志)