写真:岡 泰行
【城郭カメラマン撮影】
船上城の見どころと歴史
船上城は、天正13年(1585)に明石に移封となった高山右近により、明石川河口に築かれた平城。元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。船上城の本丸跡は、明石警察署の道路を挟んで西側。住宅街の中にある田んぼがその跡地で中央付近に木々が茂った一段高い場所が本丸跡となる。小さな古城川の橋を渡り駐車場の西側の路地を北へ入る。本丸跡へは田んぼのあぜ道を通ると辿り着く。
船上城址碑は発見が難しい
船上城址の石碑が本丸跡にある。と言っても、普通に訪れただけではまず発見できない。本丸跡にある古城大明神の祠がある。そのコンクリートの台座にある正方形の小さな穴から中を覗くと、船上城址碑が隠されている。これはその昔、この界隈で石が盗まれることが多く、城址碑を祠の中に隠した。筆者が27年前に訪れた際、現地の古老に教えていただいた。小さ目のカメラやスマートフォンでフラッシュを焚いて撮影すると良いぞ。
船上城の歴史
天正13年(1585年)8月の天下を取った羽柴秀吉の国替えにより、キリシタン大名で有名なあの高山右近が明石6万石を与えられ、高槻城から移って築城しました。小さいながら天主や門、堀を持った総構えの城郭で、現在古城川となっている東側の堀が海まで続き、港が開かれていたようです。右近は秀吉から大船2隻を与えられていたことから、瀬戸内海の守りと同時に、外国からの宣教師の来訪も想定していたようです。しかし、高山右近が在城したのは2年あまりで、天正15年(1587年)のキリシタン追放令の際、右近は信仰を捨てず、明石の地を去りました。
その後、当地は秀吉の直轄領となった後、慶長5年(1600年)に池田出羽守由之が入城。さらに元和3年(1617年)には小笠原忠政が明石藩10万石の領主となり入城しますが、同5年に明石城が完成すると忠政はそちらに入城し、船上城は翌年の1月19日の火災で焼失し、自然廃城となったようです。
(文:西山忠博)
船上城の書籍
『講座 明石城史』(明石城史編さん実行委員会・明石市教育委員会 2000年3月31日発行)の「船上城の発掘調査から」「船上城と城下」などで本丸と堀、また城域の推測や絵図などから町割の考察などがなされている。
船上城の周辺関連史跡
明石城とセットで攻めるべし。その明石城前の現存の織田家長屋門(兵庫県明石市大明石1丁目)は、船上城下にあった侍屋敷の門が移築されたもの。
船上城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル
付近に宿泊施設はなく町の中心地である明石城の方で。「グリーンヒルホテル明石」が最も明石城に隣接しており上階から明石城を一望できる。または明石駅の南側になるが「明石キャッスルホテル」。
船上城のアクセスと観光情報
船上城の旅のチェックリスト (6)

かつては小規模ながら天主を持つ総構えの城郭だったらしいですが、現在は田んぼの中に高さ2〜3メートルの台地があり、船上城跡の看板と古城大明神の祠があるだけです。どうやらその地が本丸跡らしいです。その他は、本丸跡の北側から東側にかけて流れる小川(古城川と言うらしい。)が堀跡だと言われております。南方200〜300m位の所にある望海浜公園に盛り土のようなものがありますが、これは土塁跡でしょうか?
( 西山忠博)
住宅街の中に埋没していてけっこうわかり辛いです。明石警察署の南側の道を西へ行くと小さな川(古城川)があり、その橋を渡ってすぐの駐車場の西側の路地を北へ入ります。奥まで進むと田んぼがあり、西側に目をやると目に入る盛り土が本丸跡です。田んぼのあぜ道を通ってそこへ行けます。
( 西山忠博)
「船上」と書いて「ふなげ」と読む。海からの物資の搬入口がすぐ近くにあったことから、「船上げ」がなまったものではないかと勝手に推測!
( 半兵衛)
秀吉が大坂の海の守りのために、蜂須賀正勝、高山右近らが配置したと言われている。この地は、明石海峡を望む場所で海の交通を監視できる地である。
( 官兵衛)
城跡は、畑の中に5m四方ほどの小さな丘が本丸跡と伝わり、その畑を囲むように流れる小堀川が内堀跡である。石垣などは明石城築城の際にすべて持ち去られたそうな。
( 半兵衛)
畑から西を望むと「寶蔵寺(ほうじょうじ)」という寺があり、その場所が高山右近が教会を建てた場所と地元で言い伝えられている。この城に行くのに明石警察署を目印に行くが、その明石警察署は侍屋敷のあった場所らしい。
( 官兵衛)