写真:岡 泰行

飯盛城(飯盛山城)の歴史と見どころ

2021年6月、飯盛城跡が国の史跡に登録されることとなった。2016年から3年間の調査を経て山城での石垣使用や当時の政治拠点だったことなどから文部科学大臣に答申。大阪府内の国指定史跡は70件となる。

大東市・四條畷市の両Webサイトで、飯盛城の縄張図やレーザー測量図などがPDFで閲覧できる。

 

四条畷市立歴史民俗資料館

四条畷市立歴史民俗資料館現地では「四条畷市立歴史民俗資料館」で、『河内飯盛城2017』パンフレットがGETできる(『飯盛山城遺跡発掘調査概報』『飯盛城跡縄張測量図』など有料の刊行物も)。なお、四条畷市立歴史民俗資料館(MAP)には、日本最古のキリシタン墓碑が展示されているので見ておこう。飯盛山城の支城ともいわれる、田原城の城主、田原レイマンのキリシタン墓碑で、2002年2月14日、田原氏の菩提寺、千光寺跡の発掘調査で出土したもの。

この辺りは、永禄6年(1563)、三好長慶が飯盛山城でキリスト教を布教を許可したことから(主な家臣73名が洗礼を受けている)、最盛期は、6,000人近いキリシタンがいたそうだ。田原レイマンも三好長慶のもとで受礼した。また、飯盛山麓にある慈眼寺(野崎観音)の釣り鐘には、キリスト教信仰の名残があり、内側に十字架が掘られている。

余談ながら、四条畷市立歴史民俗資料館の前の道は、東高野街道といって、平安時代から京都の東寺より高野山を結ぶ街道で歴史が古い。四条畷市立歴史民俗資料館は、9:30〜17:00、月曜休館(月曜が祝日の場合は翌火曜日休館)。

飯盛城(飯盛山城)の散策コース

飯盛城の石垣を見るには

ハイキングコースの登山道を歩けば、飯盛城(飯盛山城)の堀切や土橋を通り各曲輪をめぐることができる。石垣(石積)は曲輪の側面や段曲輪の側面にあることが多く、ハイキングコースで曲輪を縦走してしまうと、あまり見ることができない。最も簡単に石垣を見ようと思えば、城域に入ると、多少、登山道が分岐しているので、それを進めば曲輪側面を歩くことができ、点在する石垣のいくつかを見ることができる。

飯盛山城・新発見の石垣(土留め説有り)もっと通に、できるだけ多くの石垣を見ようと思えば、ハイキングコースから飯盛山城の縄張図などを参照して急勾配の道なき道を降りてゆけば、見ることができるが、登山装備でどうぞ。天下を制した三好長慶の居城が実感できる。なお、上記Googleマップには、飯盛山城に造詣をお持ちの大阪府のSさんのご案内で訪れた際に、GPSを使って、縄張図掲載以外のものも含めできるだけプロットしたが、それでも石垣が全て記載されている訳ではない。縄張図もすべての石垣が網羅されている訳ではないらしい。

飯盛城(飯盛山城)の関連史跡

 

楠木正行を巡る

楠木正行の銅像が飯盛山城の山頂に建っているが、登山口のひとつである四條畷神社に、楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」の石像がある(四條畷神社は楠木正行が主祭神)。桜井の別れは、楠木父子が桜井駅(宿駅)で訣別する話で『太平記』に登場する。その桜井の場所は、四條畷神社ではなく、大阪府三島郡島本町桜井(JR東海道本線、島本駅前)にある「史跡桜井駅跡」とされている。そこにも「桜井の別れ」の父子の石像があるぞ。その、四条畷の戦いで討死した、楠木正行の墓や供に戦った和田賢秀の墓などが、飯盛山の西側に点在している。

三好長慶の銅像

三好長慶の銅像が、2017年10月29日、大阪府大東市の市役所前に建立された。甲冑を着た陣羽織の姿で、教興寺の戦いで指揮を執る姿なのだとか。高さは1.45m。三好長慶の銅像は、ほかに堺の南宗寺にもある。

付近の城

田原城付近の城では、田原レイマンの城、日本最古のキリシタン墓碑が出土した、歴史風情漂う田原城へどうぞ。最も近い城は、野崎城、三箇城、三好陣屋。

飯盛城(飯盛山城)のアクセス・所在地

所在地

住所:大阪府大東市北条(大字)・大阪府四條畷市 [MAP] 県別一覧[大阪府]

電話:072-870-0442(大東市都市魅力観光課)
電話:072-877-2121(四條畷市生涯学習推進課)

アクセス

鉄道利用(楠木正行派はこちら)

JR片町線、四條畷駅下車、東へ徒歩14分(1.0km)、四条畷神社が登山口。四条畷神社は、四條畷の戦いで討死した楠木正行を主祭神としている。神社境内には楠木氏慰霊塔や、楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」の石像がある。

鉄道利用(野崎城も合わせて登城派はこちら)

JR片町線、野崎駅から東へ徒歩13分(850m)、慈眼寺(野崎観音)を目指し、そこから野崎城へ登城、そのまま飯盛山の七曲がりコースを登る。野崎観音の鐘楼の内側には、キリスト教信仰の名残があり、内側に十字架が掘られているのでちらりと見ておこう。

例えば、行きと帰りで、「四条畷神社」コースと「野崎観音」の七曲がりコースと道を変えると良い。

 

マイカー利用

第二京阪道路、寝屋川南ICから、約35分(約12km)、または、阪神高速13号東大阪線の終点から、約30分(約10km)、または、信貴生駒スカイライン、登山口ICから阪奈道路を通り約20分(約7km)。
いずれも「キャンピィだいとう(大東市立野外活動センター)」を目指す。路肩の駐車スペースに駐める。

城ファンの気になるところ (8)

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    戦国時代に三好長慶が絶頂期の時に居城とし、また死を迎えた城です。戦国の山城の規模や攻防の難解さが実感できるものだと思います。登山道の四条畷神社から約40分で山頂、見晴らしはよし!四条畷神社の祭神でもある楠木正行の銅像があります。桜が綺麗です。頂上付近に石垣らしきものがあるが…。

    ( 三上)

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    1349年頃飯盛山を中心に楠木正行と高師直の四条畷の戦いが行われる。戦国時代に入り木沢長政が飯盛山に城を築き、三好長慶に奪われる。長慶が茶や和歌を好む風流人だった事もあり、都のように栄えたとか。教会も建てられ長慶自身も宣教師の話を聞きに行っていたという。長慶の死後三好家は崩壊、1573年に織田勢に攻められ、以後廃墟となる。

    ( 三上)

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    飯盛山城は、生駒山系に属する飯盛山頂・標高314mの地点が呼称・高櫓址で現在は麓の四条畷で戦死した楠木正行の銅像が建つ。続く主郭は帯曲輪を伴いながら北方に伸びておりハイキングコース脇には石垣が残存している。主郭一帯は休日となるとたくさんのハイカー達の憩いの場として賑わう。FM放送施設が建つ千畳敷は城内最大の広さを誇る曲輪であり土塁や櫓台などを残す。発掘調査では柵列の跡が見つかっているだけで南方部の虎口へと兵力を集中させるための施設があったとも考えられているが、三好長慶の常御殿があった場所だとの説も有力である。主郭から北へは堀切を穿って御体塚丸・三本松丸・北ノ丸などの曲輪が続き特に三本松丸からの眺望は素晴らしい。また東西に向かっても放射状に曲輪が見受けられる。御体塚丸に建つ「三百回登山記念碑」下の塚は三好長慶墓との伝承があり御体の名の由来ともなっている。またこの曲輪の東側斜面には高石垣遺構が数箇所に渡って散見できる。

    ( 佐助)

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    飯盛山城は、楠公寺が建つ辺りが俗称・馬場で附近に貯水池や縦堀などの跡を残す。大手道と考えられる滝谷道はかつては馬でも登れたと言われる程平坦な道であり城域南端に位置する桜池へと集中する野崎・龍間などからの城道もここで一点となって馬場へと至っている。城内への兵糧搬送の中継経路であり馬場は水や食料を蓄えるための要だったと考えられる。高櫓東方50mの場所に金明水井戸と呼ばれる3m四方に及ぶ石組みの井戸があったらしいが現在は所在不明となっている。山城での貴重な水源であったと思われるが後世の登山道拡張によって破壊されたと思われる。

    ( 佐助)

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    三好長慶の居城。山頂には郭の跡が残る。長慶は一時期ここから畿内を治めていた。

    ( 澤田耕一)

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    楠木正行を祭る四條畷神社からハイキングコース経由で。堀や石垣もある程度探せば見つかります。何より飯盛山城のお勧めはその眺望。大阪平野・神戸はもとより関西空港から明石海峡大橋まで見渡せます。登ってきた疲れも吹っ飛びます。

    ( Love)

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    飯盛山城は、御体塚丸の南にある堀切が見事です。三本松丸からの眺望も悪くないです。 馬場(現、楠公寺)まで車で行くことができますが、悪路につき普通車では下回りを擦る覚悟が必要な場合もあります。

    ( ポリタンク)

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    一般的には「飯盛山城」や「飯盛城」と両方の名称で呼ばれている。自治体発酵の一般向けパンフレットは「河内飯盛城」となっているが、発掘調査報告書などは、2016年現在、一部で「飯盛山城」が使われているようだ。

    ( 三好長慶)

城の情報

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