槇島城の歴史・見どころ

槇島城の歴史

槇島城(まきしまじょう)は、宇治川の渡河点にあたる交通の要衝に位置し、室町時代から安土桃山時代にかけて足利将軍家の家臣・真木島氏が本拠とした城。周囲を川に囲まれた天然の要害でもあり、中世には京都と南山城を結ぶ拠点としてたびたび歴史の舞台となった。

槇島城をめぐる記録は古く、承久3年(1221)の承久の乱では、後鳥羽上皇方が長瀬左衛門の軍勢五百余人を当城守護のために配置している。文明元年(1469)には、成身院光宣が興福寺衆徒・国民と山城国人を率いて槇島館に入ったことが記録に残る。

明応8年(1499)には、細川政元の被官・赤沢宗益が畠山尚順方を攻め、槇島館を攻略した。同年以降は細川政元の居城となり、将軍足利義澄をたびたび迎えて鷹狩や能、連歌などが催された。政元や赤沢宗益らの拠点として利用されたのち、永正17年(1520)には足利義稙が奉公衆の真木島光基を槇島館へ帰還させた。

元亀2年(1571)には、足利義昭方と対立した松永久秀が槇島城を攻撃した。天正元年(1573)、織田信長と対立した義昭は京都の二条御所を退去して槇島城に入り、南山城の土豪らの支援を受けて挙兵。7月18日に信長軍の攻撃を受けると、義昭は息子の義尋を人質として講和し、槇島城を退去した。これによって室町幕府は事実上終焉を迎えた。なお、この年以前には義昭が京都の河原者に夫役を課し、槇島城を修築させたことも記録されている。

合戦後も槇島城は存続し、信長は細川昭元を置き、天正2年(1574)には塙直政が山城守護として入城したとされる。天正10年(1582)には明智光秀方の城主・井戸良弘が秀吉方の筒井順慶に城を明け渡して退去。天正12年(1584)頃には一柳末安(直末)が秀吉から上山城の支配を命じられ、槇島城を与えられたとされる。文禄3年(1594)頃に廃城になったと考えられている。一方、慶長5年(1600)には、伏見城攻防のため槇島に城が築かれたとの記録も残る。

槇島城の特徴と構造

槇島城は、宇治川左岸の現在の宇治市槇島町一帯に位置した平城。『日本城郭大系』では下村集落付近を城跡とし、城域を約200m×220mとしているが、正確な位置や範囲は明らかになっていない。平成17年(2005)には、槇島城推定地の南方約100mで発掘調査が行われたものの、城に直接結びつく遺構は確認されなかった。

発掘調査では、下層から16世紀代の遺物や旧宇治川と考えられる砂礫層が確認された。槇島城付近では旧宇治川の流路が複数に分岐し、移動を繰り返していたことが明らかになっている。城郭関連の遺構は、より北側に位置する高い砂礫州の中央部に分布する可能性が指摘されている。

旧宇治川の流路が機能を停止した時期は16世紀代の可能性が高く、豊臣秀吉による宇治川の改修との関係も想定されている。ただし、発掘調査では両者の関係を直接示す証拠は確認されていない。

槇島城の整備状況

槇島城周辺は宇治川の流路変化や堤の築造、その後の土地利用によって旧地形が大きく変化し、地表に城郭遺構は確認できない。薗場児童遊園には槇島城跡を示す石碑と宇治市教育委員会による案内板が設置され、少し北の槇島公園には槇島城記念碑が建てられている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系11』(新人物往来社)
  • 『宇治市埋蔵文化財発掘調査報告書 第63集』(宇治市教育委員会)
  • 現地案内板「槇島城跡」(宇治市教育委員会)

槇島城周辺の観光スポット・史跡めぐり

宇治川太閤堤跡

豊臣秀吉が伏見城築城に伴って進めた宇治川改修の姿を伝える国史跡。発掘調査では石積み護岸や杭止め護岸などが確認され、現在は「お茶と宇治のまち歴史公園」の史跡ゾーンとして整備されている。槇島城周辺の景観を大きく変えた、16世紀末の宇治川改修を知るうえでも訪ねたい。

黄檗公園周辺の高台

槇島合戦で織田信長が陣を置いたとされる柳山にあたる場所。『信長公記』には、元亀4年(1573)7月16日に信長が五ヶ庄の「上やなぎ山」に陣を置いたことが記される。現在は黄檗公園となり、宇治市の散策コースでも槇島合戦ゆかりの地として紹介されている。残念ながら陣所を示す遺構や石碑などは残されていない。

槇島城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:京都府宇治市槇島町薗場 [地図を見る]

県別一覧:[京都府の城]

電話0774-21-1602(宇治市歴史まちづくり推進課)

アクセス

鉄道利用

JR奈良線「宇治駅」下車、薗場児童遊園まで徒歩約17分。

マイカー利用

京滋バイパス「宇治西IC」から槇島城跡周辺まで約5分(約1.8km)。

地図