写真・監修:岡 泰行(城郭カメラマン)
播磨山崎城の歴史と見どころ
因幡街道の要衝として知られる宍粟(しそう)山崎の地に、播磨山崎城(はりまやまざきじょう)は築かれた。城郭の構築が本格化したのは、池田輝政の四男・池田輝澄が元和元年(1615)に山崎藩主として入封したときである。鹿沢台地の南端に本丸を据え、揖保川と菅野川を活用した水堀を設けるなど、巧みに地形を取り込んだ縄張りが形成された。その後、譜代大名が相次いで入れ替わり、延宝7年(1679)からは本多氏が明治維新まで約200年にわたり山崎を治めた。現在、遺構の大部分は失われたが、移築された紙屋門や市内に点在する石碑が、往時の構造を今に伝えている。
播磨山崎城の歴史
播磨山崎城のある宍粟市山崎町は、播磨北西部における交通と行政の拠点として発展してきた。天正8年(1580)、羽柴秀吉の播磨攻めにより、当地の有力な山城であった篠ノ丸城が落城し、山崎一帯は織豊政権に組み込まれた。その後、黒田孝高や木下勝俊らがこの地域を治めたが、いずれも居城は山城の篠ノ丸城としていた。
現在「山崎城」と呼ばれる城郭は、元和元年(1615)に池田輝澄が入封した際に整備された近世城郭を指す。輝澄は鹿沢台地の南端を利用して城を築き、本丸、北側に二の丸・三の丸を連ねる連郭式の構造とした。堀には揖保川の水を引き入れ、水堀をめぐらせる工夫が施されていた。
その後、輝澄は寛永17年(1640)に改易となり、山崎藩には譜代大名の松平康映が入封した。康映の家系も3代で断絶し、さらに池田恒元が入封したが、再び断絶している。延宝7年(1679)、大和郡山城から本多忠英が1万石で入封し、以後明治維新まで本多氏が9代にわたり山崎を治めた。
幕末期には城郭の機能が陣屋に移行し、城は廃城となった。明治4年(1871)の廃藩置県によって山崎藩も廃され、城の役割は完全に終わった。その後、城跡地には山崎小学校が建てられ、本多氏ゆかりの本多公園として整備されている。
「紙屋門」は、もとは山崎陣屋の東側に構えられていた城門のひとつで、本多氏の藩邸域における表構えを担っていた。現在は、本丸跡に整備された本多公園の一角へと移築され、立葵の家紋を冠した門構えが往時の威容を伝えている。宍粟市立図書館の南側に位置し、宍粟市指定有形文化財に登録されている。
図書館2階に設けられた宍粟市歴史民俗資料館には、江戸時代の山崎城に関する絵図や史料が展示されており、往時の姿を視覚的に学ぶことが可能となっている。
播磨山崎城の特徴と構造
播磨山崎城は、平地に築かれた連郭式の平城であり、その構造は周囲の自然地形を活用した点に特色がある。本丸は鹿沢台地の南端、崖上のやや高所に設けられ、北側に向かって二の丸・三の丸が直線的に連なる構造となっていた。これにより、防御と行政機能の分化が図られていたとされる。
堀は、揖保川や菅野川の水を引き込んで内堀・外堀が築かれ、城の周囲には石垣や土塁が設けられていた。現在はほとんどの遺構が失われているが、建築遺構として表門として「紙屋門」が現存しており、立葵の家紋が風格を伝えている。
市街地には、大手前や中堀、下屋敷跡を示す石碑や案内板が点在し、城域を歩いて実感できるよう整備されている。また、宍粟市歴史民俗資料館には山崎城に関する絵図や関係資料が多数収蔵されており、縄張りや構造を学ぶうえで有用な手がかりとなっている。
参考文献:
- 『黒田家譜』 資料(宍粟市教育委員会)
- 『日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫』資料(1981新人物往来社)
- 宍粟市Webサイト「文化財」「黒田官兵衛と山崎の城」
播磨山崎城の学びに役立つ本と資料
「山崎歴史郷土館」(宍粟市図書館の2階で北側から入る)に、山崎城や本多家関係の遺品、考古資料について展示されている。月火祝と年末年始は休館。
播磨山崎城の撮影スポット
表門の紙屋門は東向き。午後の登城だと完全に逆光になるから注意しておこう。
播磨山崎城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る播磨山崎城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。播磨山崎城周辺の史跡を訪ねて
文明年間(1469〜)、このあたりを治めていた宇野氏の本城、長水城、その支城であり黒田官兵衛の治めるところとなった篠ノ丸城、羽柴秀吉の播磨攻めで本陣の置かれた聖山城、この3城はセットで見ておきたい(詳しい場所は上記Googleマップ参照)。
また、あまり知られていないが、揖保川沿いに、浜御殿跡の石垣が残っている。浜御殿跡は江戸時代藩主本多氏の別邸のあったところで、ちょうどこのあたりから、聖山城の眺望が良い。なお、石垣は揖保川の方に組まれているので、やや発見が難しいかもしれないが、上記Googleマップを頼りに訪れてほしい。
播磨山崎城のアクセス・所在地
所在地
住所:兵庫県宍粟市山崎町鹿沢 [MAP] 県別一覧[兵庫県]
電話:0790‑63‑3117(山崎歴史郷土館・宍粟市教育委員会 社会教育文化財課)
アクセス
鉄道利用
JR姫新線、播磨新宮駅よりバス「山崎」降車。またはJR姫路駅から、神姫バス山崎停留所を利用する。「宍粟市図書館」を目指そう。観光案内所は神姫バス山崎停留所にあるぞ。
山崎城は、城門(表門の紙屋門)しか残っていないイメージがあるが、付近に門跡を示す石碑が多数点在しているから、巡ってみると城域が体感できる。
マイカー利用
中国自動車道、山崎ICから北西へ1.2km(約4分)。山崎文化会館の駐車場を利用する。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
播磨山崎城に寄せて
これまでに届いた声:全2件

紙屋門には、本多家の家紋、立葵の軒丸瓦が使われているぞ。
( shirofan)さんより
城下には多数の石碑がある。大手前石碑、山崎城中門の跡石碑、山崎城外堀跡石碑、内堀跡石碑、埋御門の跡石碑、表御門跡石碑、山崎城中堀の跡石碑、山崎藩櫻の馬場跡石碑、鹿沢城搦手石碑、清水口見付御門跡石碑などなど。兵陵に築かれた城で、開発によって境目が分かりづらいが、石碑をたどってみると、その規模がよく分かる。
( shirofan)さんより