大友氏館の歴史・見どころ

大友氏館の歴史

九州に大きな勢力を築いた大友氏。その政治と文化の中心となったのが、大友氏館だった。大友宗麟をはじめとする歴代当主のもとで館は改修と拡大を重ね、最盛期には九州六か国に勢力を及ぼした大友氏の本拠となった。

大友氏館の姿が明らかになるのは、14世紀後半から15世紀前半にかけてのこととなる。大友氏の菩提寺・万寿寺から北西約300mの場所に館が営まれ、溝で区画された内部には掘立柱建物が規則的に配置されていた。15世紀後半には館の中央から東側にかけて大規模な整地が行われ、中心となる建物群が整えられるなど、館は大友氏の勢力拡大とともに改修を重ねていった。

この頃の大友氏は、守護から守護大名、さらに戦国大名へと成長していく。18代親治と19代義長は領国支配の新たな体制を整え、20代義鑑は天文12年(1543)に肥後国守護職を得て、豊後・筑後・肥後の三か国支配を完成させた。19代義長の頃には館の南東部に庭園が造られ、大友氏館の整備も進められた。

その後、天文19年(1550)の政変を経て義鑑から家督を継いだ21代義鎮は、やがて九州六か国に勢力を広げていく。弘治2年(1556)には家臣・小原鑑元らの反乱を契機に臼杵へ拠点を移し、永禄5年(1562)には剃髪して宗麟と名乗った。天正元年(1573)に家督を継いだ義統の時代には政庁が府内へ戻され、大友氏館と府内の町は大きく造り替えられた。館は築地などで囲まれた方二町の規模へ拡大し、庭園も雄大な池や中島、滝石組などを備えた姿へと改修された。

繁栄を重ねた大友氏館と府内の町は、天正14年(1586)、島津軍の豊後侵攻によって焼亡する。館跡や町跡からは火災層や火災処理穴、火を受けた遺物が見つかっており、戦火の痕跡を現在に伝えている。翌天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐によって島津軍は豊後から退いたが、宗麟は同年5月23日、津久見で死去した。焼亡した大友氏館が再び同じ場所に築かれることはなく、館としての歴史に幕を下ろした。

大友氏館の特徴と構造

大友氏館は最盛期には約200m四方、約4haという広大な敷地を占めていた。宗麟・義統期には築地などによって方二町に区画され、館の中心には大型の礎石を用いた南北29m、東西15mの大規模な建物が置かれた。池庭や主殿、その前面の広場などを備えた構成は、室町将軍邸や管領邸の規範に近いものとされる。現在、館の建物は残っておらず、その遺構の多くは地下に保存されている。

館のなかでも特に大きな見どころが、南東部に設けられた庭園跡だ。平成10年(1998)の発掘調査で発見され、池の遺構がほぼ当時の状態で地下に残されていた。宗麟・義統期には東西67m、南北30mという、戦国大名の館跡では最大級の池をもつ庭園へ改修されている。池には海を表現した景観がつくられ、中島、石を敷き詰めた州浜、築山のほか、景石や滝が配された。現在目にする庭園は、発掘調査の成果をもとに宗麟・義統期の姿を復元整備したものとなる。

大友氏館跡庭園
発掘調査で確認された庭園遺構をもとに、宗麟・義統期の姿を復元整備した大友氏館跡庭園。
西池・大友氏館跡庭園
大友氏館の南東部に広がる東西67m、南北30mに及ぶ池を中心とした大友氏館跡庭園。西池には築山が配されている。
東池・大友氏館跡庭園
庭園の東池。景石や滝石組などを配し、変化に富んだ池辺の景観をつくる。黒い石は発掘調査で出土した本物、白い石は実物を精巧に型どりしたレプリカで、真下に本物の石が眠る。
白い玉砂利
庭園内に敷かれた白い玉砂利。発掘調査で確認された庭園遺構を保護しながら、往時の景観を表現するために整備されたもの。

大友氏館の整備状況

大友氏館跡では史跡の公有化と発掘調査、保存整備が進められている。平成10年(1998)に発見された庭園跡は、発掘調査の成果をもとに宗麟・義統期の姿へ復元整備され、令和2年(2020)6月5日から一般公開されている。

館跡には、大友宗麟や大友氏遺跡を展示や映像で紹介する「南蛮BVNGO交流館」が設けられている。現在も大友氏館跡の発掘調査が続けられる一方、中心建物などの復元や、南蛮BVNGO交流館の機能を引き継ぐ「歴史文化観光拠点施設」の整備が計画されており、大友氏館跡全体を歴史公園として整備する取り組みが進められている。

参考文献:

  • 『大友氏館跡』(大分市教育委員会2015)
  • 『大友氏遺跡20年の軌跡~地域と大友氏遺跡事業のあゆみ~』(大分市教育委員会)

大友氏館をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

南蛮BVNGO交流館

大友氏館跡に隣接する入館無料のガイダンス施設。大友宗麟や大友氏の歴史、南蛮文化が花開いた豊後府内について、展示や映像を通して学ぶことができる。大友氏館跡をめぐる前後に立ち寄れば、館と府内の町の関係をより深く理解できる。

書籍

大友氏館をより深く知るなら、『戦国大名大友氏の館と権力』(吉川弘文館2018)がおすすめ。館の構造や庭園、出土遺物、豊後府内の都市構造などを多角的に取り上げ、大友氏の権力と館の関係を読み解く専門書となる。発掘調査の成果を手軽に確認するなら『大友氏の遺跡』(大分市教育委員会教育部文化財課2025)は大分市のサイトでPDF公開されているので、あわせて読みたい。

大友氏館の撮影スポット・絶景ポイント

大友氏館の写真(城写真ARCHIVE)

城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、大友氏館の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。

大友氏館周辺の観光スポット・史跡めぐり

上原館

上原館上原館(うえのはるやかた)は、大友氏館の南西に位置する上野台地に築かれた大友氏の城館で、別名「西山城」とも呼ばれる。日常生活や政治の場であった大友氏館に対し、上原館は戦いに備えて守りを固めた館で、東西約130m、南北約156mの規模をもつ。幅17m、高さ4mにも及ぶ土塁や堀を備えた城館で、大友氏館とともに大友氏の豊後府内における拠点の姿を伝えている(大分県大分市上野丘西8-15)。

大友宗麟の墓

大友宗麟の仏式の墓大友宗麟が晩年を過ごし、天正15年(1587)に58歳で生涯を閉じた津久見の終焉の地にある墓所。宗麟は天正11年(1583)に天徳寺へ隠居し、この地でキリスト教による理想の国づくりを目指した。死後はキリスト教式の墓に葬られたが、豊臣秀吉によるバテレン追放令ののち、長男・義統によって仏式に改葬されたという。その墓もやがて荒廃し、寛政年間(1789~1801)に旧家臣の末裔・臼杵城豊が改葬して墓碑を新調した。

大友宗麟のキリスト教式の墓碑昭和52年(1977)には「大友宗麟公顕彰会」が結成され、建築家・磯崎新の設計によるキリスト教式の墓碑が並ぶ現在の墓所へ整備された。平成5年(1993)に津久見市史跡に指定されている(大分県津久見市津久見)。

大友宗麟の銅像

大友宗麟の銅像神宮寺浦公園に立つ大友宗麟の銅像。かつてこの地にあった宗麟像は、第二次世界大戦中の金属回収によって失われ、台座だけが残された。その後、周辺も戦火を受けたが、戦後、大分市長となった上田保は像の再建を念願していた。作者・日名子氏の遺族のもとに原型が保存されていることが分かり、これを譲り受け、県出身の彫塑家・長谷秀雄に制作を依頼した。こうして昭和33年(1958)4月、旧台座の上に大友宗麟像が再建された(大分県大分市勢家町4丁目6)。

なお、大分駅府内中央口広場にも大友宗麟公像がある。昭和57年(1982)11月3日、天正遣欧少年使節の派遣400周年を記念して大分市が建立したものだ。また、宗麟終焉の地である津久見では、JR津久見駅前と大友宗麟の墓地にも宗麟の銅像が立っている。

デウス堂跡

デウス堂跡天文22年(1553)6月、府内に礼拝堂が建立され、高い十字架が掲げられた。これが府内教会、通称「デウス堂」で、「わが慈悲の聖母の教会」と呼ばれた。大友宗麟の保護もあり、府内を中心にキリスト教は広がり、弘治3年(1557)には府内に2,000人のキリシタンがいたという。教会では毎日ミサが行われ、少年合唱隊がオルガンやビオラに合わせて聖歌を歌い、宗教劇も演じられたと宣教師の報告に記されている。その後、府内には西洋医術による病院や学校(コレジオ)も設けられ、南蛮文化を伝える都市として発展した。現在は推定地に石碑が立つ(大分市顕徳町2丁目)。

大友氏館アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:大分県大分市顕徳町3丁目5-5 [地図を見る]

県別一覧:[大分県の城]

電話097-578-9191(南蛮BVNGO交流館)

開館情報

大友氏館跡庭園は入園無料。開園時間は9:00~17:00(入園は16:30まで)。休園日は月曜日(第1月曜日、祝日、振替休日の場合は開園し、その翌日が休園)、祝日の翌日(土・日曜日の場合は開園)、年末年始(12月28日~1月4日)。

アクセス

鉄道利用

JR「大分駅」下車、徒歩約25分。

マイカー利用

東九州自動車道「大分米良IC」から約13分。無料駐車場有り(約50台、南蛮BVNGO交流館と共用)。

地図