臼杵城は大友宗麟が臼杵湾に浮かぶ丹生島に築き、のちに稲葉氏15代の居城となった城。切り立った岩壁に囲まれた天然の要害で、現在も天守櫓台や空堀、石垣、畳櫓が残り、復元大門櫓や四季の景観も美しい。このページでは臼杵城の歴史や見どころ、アクセス、周辺歴史スポット、撮影スポットを豊富な写真とともに紹介する。
写真:林田公範・岡 泰行
臼杵城の歴史・見どころ
臼杵城の歴史
臼杵城(うすきじょう)は、豊後水道に面した臼杵湾の丹生島に、大友宗麟によって築かれた城。築城年代には諸説があり、臼杵市では永禄5年(1562)から永禄6年(1563)にかけて築かれたと考えている。当時の丹生島は海中に浮かぶ島で、四周を切り立った岩壁に囲まれた天然の要害だった。永禄4年(1561)、大友氏は毛利氏との戦いで敗れ、その追撃に備える必要に迫られたことが築城の背景とされる。
宗麟が臼杵城を拠点とすると、臼杵には城下町が形成され、南蛮貿易の港として外国船や明の商人が訪れるようになった。また、キリシタン布教の拠点ともなり、天正6年(1578)には城内に礼拝堂が設けられたとされ、天正8年(1580)には修練所、天正10年(1582)には宗麟によって大聖堂が完成した。
天正14年(1586)、島津軍が臼杵へ攻め寄せると、宗麟は臼杵城に籠城した。城下は戦火を受けたものの、宗麟はポルトガルから輸入した「国崩し」と呼ばれる大砲を用いて抗戦し、城は落城を免れた。
文禄2年(1593)、大友義統が朝鮮出兵での軍事行動を理由に豊臣秀吉から改易されると、大友氏による豊後支配は終わり、豊臣秀吉配下の福原直高が入城した。近年の発掘調査によって、福原直高が城主だった文禄3年(1594)から慶長2年(1597)頃に、最初の天守櫓が築かれた可能性が高まっている。福原氏に続いて太田一吉が城主となり、慶長2年(1597)から慶長5年(1600)には現在の祇園洲周辺に三之丸が築かれたとされる。
慶長5年(1600)、太田一吉が守る臼杵城を岡城主・中川秀成が攻めた。太田軍は中川軍を退けたものの、関ヶ原の戦い後に開城した。同年、稲葉貞通が美濃郡上八幡城から5万石で入封する。稲葉氏は城郭の改修を進め、貞通と典通(のちの2代目藩主)の時代には空堀や本丸入口、登城路などを整備した。天守櫓もたびたび修理され、明暦元年(1655)の大規模な修理では、天守櫓と本丸北西隅の付櫓をすべて櫓でつなぐように改築されたことが、江戸時代の臼杵城絵図と発掘調査から判明している。
本丸には、政務を執行する場となる「表」と、藩主の生活空間となる「奥」からなる本丸御殿が置かれた。しかし城下町や三之丸(現在の祇園洲地区など)から離れて不便だったことから、延宝4年(1676)、その主な機能は二之丸(西の丸)御殿へ移された。臼杵城は以後も稲葉氏15代の居城として続き、明治4年(1871)の廃藩置県を経て、明治6年(1873)に城の取り壊しを迎えた。
臼杵城の特徴と構造
臼杵城は臼杵川河口の丹生島に築かれ、かつては四方を海と切り立った岩壁に囲まれていた。城域は東西約700m、南北約200m、標高18.5m、比高16.5m。現在は周囲が埋め立てられているが、本丸、二之丸を中心に空堀、石垣、櫓などの遺構が残る。
江戸時代には空堀から東側を本丸、西側を二之丸と呼んだ。ただし、大友氏時代の曲輪配置は明らかになっていない。現地案内板では、江戸時代の本丸が二之丸より標高の低い位置にあることから、大友氏時代には現在の本丸一帯が二之丸だった可能性を指摘している。







天守櫓と天守櫓台石垣
本丸北西部には3層4重(外観3層・内部4階)の天守櫓が建っていた。発掘調査から、福原直高が城主だった文禄3年(1594)から慶長2年(1597)頃に最初の天守櫓が築かれた可能性が高まっている。天守櫓は1階の平面が6間四方(約11.7m)、土台部分から最上階(4階)まで6間1尺(約12.0m)の高さがあったと記録される。
天守櫓台石垣は、角石や築石の表面を特に加工せず、ほぼ石山で割った状態のまま積み上げる野面積み。築石の奥行きは表面の長さの1.5倍以上に及び、表面から見えない奥の部分で石同士がかみ合うことで強度を持たせている。城内に残る石垣の大半は天守櫓台築造後の江戸時代に積まれたもので、天守櫓台とは積み方が異なる。
稲葉氏による登城路と本丸防御
稲葉氏入城後には登城路も大きく改められた。三之丸のやや奥まった位置に新たな登城口として今橋口を設け、二之丸へ上がる途中に中之門、上之門と枡形を配置した。この改修によって旧来の登城路は上之門を境に分断され、畳櫓から上之門までの細長い空間が帯曲輪となった。本丸入口では空堀を整備し、二之丸から渡る土橋と櫓門の鉄門(くろがねもん)を設けて防御を固めた。
現存する卯寅口門脇櫓と畳櫓
現在も卯寅口門脇櫓と畳櫓が残る。畳櫓は桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りで、正保年間(1644~1648)頃に創建されたとみられる。宝暦13年(1763)の大火で焼失し、現在の櫓は明和年間(1764~1772)頃に再建されたと推定されている。
臼杵城の整備状況
臼杵城跡は令和7年(2025)3月10日に国史跡に指定され、本丸・二之丸跡(通称西の丸)の一部は臼杵公園として整備されている。城跡には江戸時代の建築となる卯寅口門脇櫓と畳櫓が現存し、空堀、門跡、井戸跡、石垣なども見ることができる。
平成13年(2001)には大門櫓が木造で復元された。天守櫓の建物は残っていないが、発掘調査で判明した天守櫓と付櫓の位置は一段高くして表示され、かつての建物配置を現地で確認できる。周囲の埋め立てによって海城としての景観は大きく変化しているものの、現存建築、復元建築、石垣や空堀、発掘調査成果をあわせて城郭の構成をたどることができる。
参考文献:
- 『日本城郭大系16』(新人物往来社)
- 現地案内板「本丸・本丸の建物」「稲葉氏の城郭改修 帯曲輪・畳櫓」「天守櫓・天守台石垣」(臼杵市教育委員会)
- 「大門櫓」((公社)ツーリズムおおいた)
臼杵城の撮影スポット・絶景ポイント
撮影では、大きく2つの視点をおさえておきたい。まず、城の南西にある大手門公園から、断崖の上に建つ城の堂々とした佇まいを狙う。主に西側斜面なので午後の撮影が向き、太陽の位置が低くなるほど岩壁に陰影が生まれ、シネマティックな一枚になるだろう。
その後は、大友宗麟時代の登城路が残る古橋口から城内へ。断崖と鐙坂を中心に、地形に沿った城の輪郭を感じ取りながら進みたい。帯曲輪からは、臼杵城の顔ともいえる再建された大門櫓を両脇の石垣とともにおさめておくと、実に城らしい写真が揃う。

そして、臼杵城で特筆したいのが桜と紅葉の美しさ。春には大門櫓や畳櫓、石垣に桜が重なり、秋には塁壁を紅葉が彩る。日本らしい四季の風景が、これほど城の佇まいに似合うのかと思わせてくれる。
臼杵城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、臼杵城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
臼杵城周辺の観光スポット・史跡めぐり
臼杵城を訪れたら、城下町まで足を延ばして歩いてみたい。城跡周辺には旧臼杵藩主稲葉家下屋敷が残り、さらに「二王座歴史の道」へ進むと、石畳の坂道や武家屋敷、町家などが連なる城下町らしい景観に出会える。とりわけ二王座周辺は、約9万年前の阿蘇噴火で形成された阿蘇溶結凝灰岩の丘に設けられた「切通し」が印象的。坂道の石畳には、この地方で産出する臼杵石が使われている。臼杵では城跡だけでなく、城下町にも目にしておきたい歴史の風景が残っている。
臼杵城周辺グルメ・名物料理
臼杵で味わっておきたい郷土料理が「黄飯(おうはん)」。クチナシの実で黄色く色づけしたご飯で、江戸時代の質素倹約のなか、赤飯の代わりに食べられたと伝わる。また、ブリやハマチなどの醤油漬けをおからと混ぜ合わせた「きらすまめし」も、臼杵を代表する郷土料理のひとつ。城下町にある「小手川商店」では、黄飯やきらすまめしなど、臼杵に受け継がれてきた郷土料理を味わえる。
そして臼杵といえば、ふぐ料理も外せない。臼杵では一年を通してふぐを味わうことができ、城下町にはふぐ料理を提供する店も多い。臼杵城と城下町を歩くなら、その土地に残る食文化にも触れておきたい。
臼杵城周辺ホテル・宿泊情報
臼杵で歴史を感じる宿を選ぶなら「春光園」。江戸時代の武家屋敷を利用した料亭に宿泊棟が隣接し、庭園は小堀遠州作と伝わる臼杵市指定文化財。宿泊棟は平成元年(1989)に建てられたものだが、城下町に残る武家文化の面影に触れながら滞在できる。臼杵名物のふぐ料理を味わえる宿泊プランもあり、臼杵城と城下町を巡る旅の余韻を、そのまま食と宿へつなげられる一軒。
もう少し手頃で実用的な宿なら、JR臼杵駅前の「クレドホテル臼杵」も便利。臼杵城へも徒歩で向かえるため、城と城下町をじっくり歩きたい旅の拠点にしやすい。
臼杵城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:大分県臼杵市臼杵2
県別一覧:[大分県の城]
電話:0972-72-1072(臼杵市文化財課)
- 臼杵城跡(公式ページ)(臼杵市)
アクセス
鉄道利用
JR日豊本線「臼杵駅」下車、徒歩約10分。裏手(東側)の入口だと徒歩5分だが、より城らしさを感じる、古橋口から登城したい。
マイカー利用
東九州自動車道「臼杵IC」から約10分(3.3km)。臼杵市観光交流プラザ駐車場が最も便利。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
臼杵城:城ファンの知見と記録
臼杵城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全7件)。







ここはわしの城じゃ
天然の要害であり、海も山も見えるぞい
毛利から守るためにあった城で、朝の景色が最高じゃ
さすがじゃろ
記録:大友宗麟 2021
日名子実三作の大友宗麟のレリーフが2つあり、1つは最盛期、1つは晩年のもの。見比べて見るのも良いですよ。
記録:あ〜じょ 2008
二の丸跡の護国神社(別名稲葉神社)、池がある所ですが、(稲葉家と臼杵勤皇隊を祀っています)その辺りに石造りの大きな金葛籠があります。元々天守閣にあったお金を入れていたものですがもしかしたら財宝が!!…あるといいなぁ…(泣)
記録:あ〜じょ 2008
城の奥(手前を大門櫓(町の方)とする)。「亀の首」からは、海が見え、臼杵七島の一つであるおにぎり型の「月見島」(現在は「つくみしま」と呼ばれる)が見える。
記録:あ〜じょ 2008
大友宗麟によって築城され、福原、太田、稲葉と廃藩置県によって壊されるまで続きました。そもそも大友宗麟がここに城を築いたのは 毛利が怖かったから。府内(大分市)より臼杵の方が遠かった事と周りが全部海に囲まれていたので毛利が攻めてきたときに見つけやすかったから。当時は大きな港としての機能があり、南蛮貿易がしやすかった、という理由が挙げられる。元々3件の漁師が住んであったのを城を造る為に丁重に立ち退いてもらったとのことらしい。
記録:あ〜じょ 2008
臼杵城は周囲4kmの丹生島(臼杵七島の一つ)に築かれた海城で、その姿から巨亀城、金亀城、亀城などの別名がある。永禄5年(1562)、大友宗麟により着工。天正4年(1576)には三層四階の天守と31の櫓があったらしい。明治維新で櫓の2つを除きほとんどが取り壊された。現在は臼杵公園となっている。
記録:あ〜じょ・半兵衛 2008
1997年4月に堀の復元と古橋周辺の修復作業が行われた。
記録:半兵衛 1999