安芸城は安芸氏の居城として築かれ、長宗我部氏の支配を経て、近世には五藤氏の安芸土居へと受け継がれた平山城。丘陵上の詰と山麓の居館からなり、曲輪や水堀、石垣、落城にまつわる毒井戸跡も残る。このページでは安芸城の歴史と構造、撮影スポット、周辺の史跡を豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
安芸城の歴史・見どころ
安芸城の歴史
安芸城(あきじょう)は、安芸平野を流れる安芸川西岸に築かれた安芸氏の居城。安芸氏の出自については、天武元年(672)の壬申の乱で土佐へ配流された蘇我赤兄の子孫とする伝承があるものの、確証はない。また、『平家物語』にみえる安芸郡の大領・安芸実康とその子らを祖先とする説も伝わる。
安芸氏の居城はもとは安芸市川北にあったとされ、延慶元年(1308)、安芸親氏によって現在地に築かれたと伝わる。戦国期になると安芸国虎が勢力を伸ばし、安芸氏は土佐七豪族の一角に数えられ、「安芸五千貫」を領有する土佐東部の有力勢力となった。一方、岡豊城を拠点とする長宗我部元親の進出によって、両氏の間では争いが繰り返された。
永禄6年(1563)、長宗我部氏が本山氏の攻撃へ向かった機をとらえ、国虎は幡多郡の一条氏の援助を得て岡豊城を攻めたが失敗した。その後、一条氏の調停によって両氏は和睦する。しかし永禄12年(1569)、元親との対立は再び決定的となった。国虎は配下の武将を安芸城へ集めて決戦に備えたものの、矢流の要害を破られ、城内からも裏切りが出て安芸城は陥落した。この籠城戦では、長宗我部方へ内通した者が城内の井戸へ毒を投じ、多くの兵が倒れたとの伝承も残る。国虎は菩提寺の浄貞寺で自害し、安芸氏は滅亡した。落城後は長宗我部氏の支配に入り、元親の弟・香宗我部親泰が城主となった。
慶長6年(1601)、山内氏の土佐入国に伴い、安芸には重臣の五藤為重が配された。為重は安芸城を修築して土居とし、以後「安芸土居」と称されるようになる。周囲には武家屋敷が並ぶ「土居廓中」が形成され、近世の安芸における五藤氏の居館と武家地へと受け継がれていった。
安芸城の特徴と構造
安芸城は安芸平野のほぼ中央、安芸川西岸の標高41mの丘陵に本丸を置き、山麓に居館を構えた平山城。丘陵は東西100m、南北190mの長楕円形をなし、詰のほか二の段、三の段などの曲輪が設けられている。堀切や虎口の遺構も残り、丘陵部と山麓部を組み合わせた構成をとる。
山麓の居館部分には堀と土塁がめぐり、南側中央には大手門が開く。大手門部分には巨石を用いた6m四方の枡形が設けられ、内部へ入った敵を三方から攻撃できる構造となる。土塁は内側に石垣を用い、井戸も2か所残る。現在確認できる堀、土塁、大手門、井戸、石垣、曲輪などは、五藤氏の段階に築かれた遺構とされている。城の周囲には武家地の土居廓中が広がり、町割や道路の形状にも近世以来の姿が受け継がれている。




安芸城の整備状況
安芸城跡には現在、詰、二の段、三の段などの曲輪、堀切、虎口、大手門の枡形、堀、土塁、井戸、石垣などが残る。周囲の土居廓中では、武家地の町割や道路形状が近世以降大きく変化せず、江戸末期から昭和前期に建てられた主屋や土蔵などの伝統的建造物も残されている。こうした藩政期の武家地の歴史的風致が評価され、平成24年(2012)7月9日、土居廓中は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
参考文献:
- 『日本城郭大系15』(新人物往来社)
- 「安芸城跡」(安芸市)
- 「安芸城跡と武家屋敷」(高知県立埋蔵文化財センター)
- 現地案内板「毒井戸跡」
安芸城の撮影スポット・絶景ポイント
安芸城の大手門を望む、水堀と石垣が織りなす風景は南向き。光の条件に大きく左右されにくく、撮影時間帯をそれほど選ばない。
安芸城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、安芸城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
安芸城周辺の観光スポット・史跡めぐり
安芸国虎の墓・浄貞寺
安芸氏の菩提寺で、永禄12年(1569)に安芸城が長宗我部元親に攻められた際、城主・安芸国虎が自刃した寺。境内には国虎の墓が残り、その墓を守るように、殉死した有沢・黒岩両家老の墓も残る。
矢流古戦場跡
永禄12年(1569)、長宗我部元親と安芸国虎の軍勢が戦った地。海に面した自然の要害だったが、長宗我部軍の奇策によって安芸軍は総崩れとなり撤退した。さらに長宗我部軍が安芸軍内の協力者の先導で城の背後へ回り込んだため、国虎は安芸城へ全軍を引き揚げ、24日間に及ぶ籠城戦へ入った。
土居廓中
安芸城を中心に形成された武家町。山内氏の土佐入国後、安芸に配された五藤氏の居館を囲むように武家屋敷が並び、現在も掘割や土用竹、ウバメガシの生垣などに往時の面影を残す。町割や道路形状も近世以来の姿をよく伝え、平成24年(2012)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。安芸城とあわせて歩きたい歴史的な町並み。
岩崎彌太郎生家
三菱の創業者・岩崎彌太郎が生まれた家。現在の建物は寛政7年(1795)に建てられたもので、彌太郎をはじめ、弟の彌之助、長男の久彌が生まれた部屋も残る。庭には、少年時代の彌太郎が日本列島を模して作ったと伝わる石組みがあり、駅前には彌太郎の銅像が立つ(銅像は2015年に江ノ川上公園から現在地に移転)。
野良時計
明治20年(1887)頃、地主の畠中源馬が時計の構造を学び、部品から手作りした時計台。田園地帯で農作業をする人々に時刻を知らせてきた安芸を代表する歴史的建造物で、畠中家住宅として国の登録有形文化財となっている。現在も個人住宅のため内部には入れず、外観のみ見学できる。
伊尾木漁港石積堤
河野の郷士・久保家によって開発された港の遺構。江戸時代末期に内港の開削を進め、石組の防波堤の建設に取りかかったが、藩の財政難から工事は中断した。野中兼山にちなみ「兼山のあほう堀」とも呼ばれるが、実際の工事は兼山の死後に行われた。昭和50年代の発掘調査で確認された石積堤の一部が、現在も泊地内に保存されている。
安芸城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:高知県安芸市土居953 [地図を見る]
県別一覧:[高知県の城]
電話:0887-34-3706(安芸市立歴史民俗資料館)
- 安芸城跡(公式ページ)(安芸市)
開館情報
安芸城跡にある安芸市立歴史民俗資料館は、9:00〜17:00。休館日は毎週月曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)、年末年始(12月29日〜1月3日)、展示替えによる臨時休館あり。入館料は一般330円、中高生110円、小学生50円。
アクセス
鉄道利用
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線「あき総合病院前駅」下車、北へ徒歩約30分。または、安芸駅から、安芸駅ぢばさん市場で無料レンタサイクル利用。岩崎弥太郎生家などを合わせてめぐるなら便利。
マイカー利用
高知自動車道、南国IC、または高知ICから、国道55号線を東へ約50km(約1時間10分)。無料駐車場有り。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
安芸城:城ファンの知見と記録
安芸城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全3件)。







安芸城は、山上の詰と山麓の居館、さらに周囲の土居廓中まで歩くと、この城の面白さがよく分かる。大手門の枡形は石垣がしっかり残り、水堀や土塁をたどりながら歩けるのもよかった。詰へはそれほど大変な登りではなく、三の段、二の段などを確認しながら上がっていける。山上だけを見れば比較的コンパクトだが、近世の石垣や堀、武家屋敷の町並みまで含めると印象が変わる。戦国期の城と、その後の安芸土居の姿を一度にたどれるところが、この城ならではの楽しさだと思う。
記録:安国寺AK 2023
歴史民俗資料館でパンフレットをいただき、縄張図を見ながら歩きました。曲輪の位置や城の構成が分かりやすく、現地の案内表示もあるので、初めてでも比較的巡りやすかったです。資料館の前から詰へ登ることができ、虎口跡を越えると平坦な曲輪が広がります。登りもそれほどきつくなく、平山城の地形を確かめながら歩けました。
記録:夕凪ゆく 2022
大手門の枡形と、その周囲に残る石垣が特に印象に残りました。水堀越しにも眺められ、土塁に沿って歩くと石垣が続いているところも確認できます。城跡だけで終わらせず、土居廓中の武家屋敷の町並みまで歩くと、安芸城周辺の雰囲気をより楽しめました。資料館前の駐車場は台数が少なく、周辺道路も狭いので、車で訪れる場合は駐車場所をあらかじめ確認しておいた方がよいと思います。
記録:郷土史双六斎 2018