写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
米沢城の歴史と見どころ
上杉家の精神が今も静かに息づく城が、山形県米沢の地にある。米沢城は、上杉景勝と直江兼続がこの地を治め、のちには藩政改革で知られる上杉鷹山が暮らしたことで知られる。戦国の緊張と江戸の静けさ、ふたつの時代の気配をとどめた城といってよい。現在、本丸跡には上杉謙信を祀る上杉神社が鎮座し、春は桜、秋は紅葉が堀に映える名所として人々に親しまれている。しかしこの地には、伊達氏の興隆、豊臣・徳川の支配下での封転、そして明治の廃城に至るまで、数百年にわたる政変と統治の記憶が静かに折り重なっている。米沢のまちなかに築かれた平城に、時代の転換点を映す佇まいがある。
米沢城の歴史
米沢城の起源は鎌倉時代にさかのぼる。暦仁元年(1238)、長井時広が置賜郡の地頭として赴任し、米沢の地に館を構えたのがその始まりとされる。やがて南北朝時代の延文元年(1356)、伊達政依がこの地に本格的な城館を築き、以後、戦国時代にかけて伊達氏の本拠として整備された。伊達稙宗、晴宗、そして独眼竜政宗らがこの城を拠点にし、時代の波を乗り越えてきた。
天正19年(1591)、豊臣政権下で奥州仕置が行われると、伊達政宗は岩出山城へと転封となり、代わって会津から蒲生氏郷が入り、その支配下に置かれる。その後、上杉景勝が越後から会津へ移され、さらに慶長6年(1601)には、関ヶ原の戦後処理により景勝は米沢へ減封される。
このとき、米沢城は正式に上杉家の居城となり、兼続の手により「舞鶴城」とも呼ばれるようになった。以後は幕府の下で外様大名として存続し、明治維新を迎えることとなる。
景勝は直江兼続を重臣として用い、米沢城の整備と城下町の形成を進めた。城内には天守は築かれず、かわりに三重櫓が本丸の象徴として据えられた。これは石高30万石に対しては控えめな構造であり、徳川政権下での政治的配慮がうかがえる。防御よりも政庁機能と格式が重視された平城であり、上杉家の内政志向を象徴する構成であった。
さらにこの城は、四方を山に囲まれた米沢盆地の平地に築かれており、要害性というよりも、外に向けた統治と経済交流を意識した構造が色濃く残る。米沢城は内向きの籠城戦に備える城ではなく、むしろ「領国の開口部」としての性格を担っていた。
江戸時代に入ると、上杉家は学問と文化を重んじた治政を行い、特に9代藩主・上杉鷹山は財政再建に尽力し、質素倹約と産業振興を推し進めた人物として知られる。彼の政策は、明治維新期の志士たちからも称賛された記録が残っており、その精神は後の時代にも影響を与えた。
明治4年(1871)の廃藩置県とともに米沢城も廃城となり、建物は解体。現在、城跡には上杉神社が建立され、城の遺構とともに上杉家の歴史を伝えている。
余談ながら、上杉景勝が米沢に入る前には、越後の春日山城、会津若松城と本拠を移しており、城ごとの変遷はそのまま上杉氏の歴史の動きと重なる。米沢城はその最終章の舞台であった。
参考文献:
- 『米沢市文化財調査報告書 第12集 米沢城跡』報告書(1992米沢市教育委員会)
- 米沢市Webサイト「米沢城跡」
- 『米沢市史 通史編1』資料集(1995米沢市)
- 『城と政治権力』書籍(2001高志書院)
- 米沢市観光協会Webサイト「米沢観光Navi 舞鶴城の由来」
米沢城の特徴と構造
米沢城は、城全体に高石垣や天守を備える近世城郭とは異なり、平地に築かれた土造の政庁型平城である。本丸を囲む主要部は、石垣を用いず土塁と堀によって構成されていた。見上げる構造物のないかわりに、地形と土構造を活かした防御と、政庁としての格式が共存する構成となっている。ここでは、現存もしくは復元された遺構を中心に、米沢城の構造的な特徴と見どころを紹介する。
本丸の土塁・水堀
現在も本丸を囲むように土塁と水堀が残る。特に本丸東面の水堀は形状が明瞭で、近世初頭の平城における防御の要を今に伝えている。石垣を用いず、あくまで土と水による防御線を主とする構造は、直江兼続の時代から続く米沢城の基本形といえる。
上杉神社の堀と石橋
現在の上杉神社正面にかかる石橋は、かつての城の大手口にあたる虎口の構造を踏襲している。参道として整備されているが、堀の幅や位置は往時のままであり、防御機能と儀礼空間が交錯する場でもあった。
二之丸跡
本丸の外郭にあたる二之丸は、現在の道路や学校敷地にあたる。痕跡の大半は失われているが、地形や区画構成からその存在が確認できる。かつては中枢部を取り囲む政務空間であったと推定される。
長命寺本堂(旧城内の現存建築)
慶長14年(1609)、上杉景勝が米沢城本丸東南隅に建立した上杉謙信の御堂は、明治10年(1877)にはその御堂が長命寺本堂として現在地に移築された。
浅間厚斎之碑・火の目観音などの碑群
松が岬公園および周辺には、浅間厚斎(西洋砲術導入の先覚者)を顕彰した碑や、城下の火災鎮護を祈念した「火の目観音」などの石碑が点在している。米沢藩が軍制・防災を重視していた姿勢が、こうした文化的記憶として刻まれている。
米沢城の撮影スポット
松が岬公園の桜
米沢城本丸跡を中心に整備された松が岬公園は、四季折々の風景に包まれる絶好の撮影地。 春は約200本の桜が堀の水面に映え、夏は緑陰が参道を覆い、秋には紅葉が土塁を彩る。 上杉謙信公像や上杉鷹山像、堀と石橋の構図は特に人気で、訪れる時間帯や天候によって印象が大きく変わる。 特に早朝や夕方、霧がかった日の柔らかな光は、米沢城の静けさを一層際立たせる。
米沢城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る米沢城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。米沢城周辺の史跡を訪ねて
米沢城を訪ねる旅は、城内にとどまらず、その周辺に点在する史跡をめぐることで、より奥深い歴史像を描き出してくれる。治水の要であった直江石堤、藩主の威厳と静寂が漂う上杉家墓所、そして戦国期の詰城・舘山城跡。城を中心に広がるこれらの地は、米沢の歴史と地勢のつながりを今に伝えている。
直江石堤
米沢城の北方、最上川沿いに築かれた大規模な堤防。 上杉家家老・直江兼続が指揮し、度重なる洪水に備えた治水事業として構築された。 堤の築造により、城下町の形成と安定が可能となったとされ、城郭防御と土木行政の両側面を担った存在である。現在も堤の一部が現存し、歴史的土木遺構として保存されている。
上杉家墓所と堀に囲まれた静域
城郭の北西、松が岬公園の外側に位置する上杉家歴代藩主の墓所。 外周を堀で囲み、石灯籠や玉垣が並ぶ静謐な空間が広がる。 とくに上杉謙信・景勝・鷹山といった藩の象徴たちの墓が並び、米沢藩主の精神的中心地ともいえる場所である。
林泉寺(上杉家歴代の菩提寺)
米沢城下にひっそりと佇む曹洞宗の古刹・林泉寺は、上杉家歴代の菩提寺として知られる。 境内には、上杉景勝を支えた智将・直江山城守兼続とその妻お船の方の墓をはじめ、 武田信玄の遺児・武田信清や、家老・甘糟景継(甘利備中守)の墓所も残されている。 いずれも上杉家の精神と支えを象徴する存在であり、苔むす墓石と杉木立の中に静かな時間が流れる。 歴史の陰に生きた人々に思いを馳せるには、まさにふさわしい場所である。
宮坂考古館(甲冑と武将ゆかりの私設資料館)
米沢駅からほど近く、静かな住宅街に佇む宮坂考古館は、甲冑を中心に上杉ゆかりの品々を展示する私設の歴史資料館である。とりわけ見逃せないのは、上杉謙信・景勝・直江兼続が所用したと伝わる甲冑の数々で、浅葱糸威や朱漆塗の精緻な具足は、時代を越えて武の美学を今に伝える。
また、かぶき者として名高い前田慶次所用とされる南蛮笠式の具足や刀装具も展示されており、彼の自由闊達な生き様を感じさせる空間でもある。火縄銃や槍、古文書、屏風絵にいたるまで、展示点数はおよそ700点にのぼり、米沢藩の戦と文化の両面に触れることができる。
一つひとつの資料には、創設者・宮坂善助の郷土への深い愛情が宿り、静かな館内には、まるで時代をまたいで語りかけるような余韻が漂っている。
舘山城跡(米沢の背後を固めた山城)
米沢市街の西方、斜平山の尾根上に築かれた戦国期の山城。 伊達氏時代からの遺構とされ、伊達政宗が一時的に居城とした記録も伝わる。 土塁・曲輪・堀切などの遺構が残り、詰城(戦時用の避難城)としての性格を色濃く残している。城下からはやや距離があるが、往時の城域の広がりを感じられる貴重な史跡である。
米沢城周辺のおすすめ名物料理
米沢城を訪れたなら、城下ならではの味覚もぜひ楽しみたい。なかでも外せないのが、日本三大和牛の一つ「米沢牛」。上杉神社近くのレストランでは、霜降りの旨味を活かしたすき焼きやステーキが味わえる。もう一つの名物が、ちぢれ麺と澄んだ醤油スープが特徴の「米沢ラーメン」。散策の合間に立ち寄れる食堂や屋台で、素朴な一杯に出会えるだろう。また、清らかな水で育った「米沢鯉」も地元ならでは。酢の物や刺身として提供され、上杉の食文化を今に伝えている。時代の余韻に浸りつつ、旅の味覚を楽しみたい。
米沢城のアクセス・所在地
所在地
電話:0238‑22‑5111(米沢市観光課)
電話:0238‑26‑8001(米沢市上杉博物館)
- 上杉神社 公式サイト(米沢城本丸跡内)
アクセス
鉄道利用
JR米坂線、JR奥羽本線、米沢駅下車、白布温泉行バス10分「上杉神社前」降車。
マイカー利用
東北中央自動車道、米沢八幡原ICから、14分(約9km)。上杉神社の無料駐車場(310台)を利用する。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
米沢城に寄せて
これまでに届いた声:全13件

米沢城址は一応残っていますが、遺構といえば堀ぐらいですが、これも土塁で石垣ではありません。上杉家は謙信の養子の景勝のときに秀吉の命により越後から会津に移封され、このとき家臣の直江兼続に秀吉直々の命により米沢があてがわれました。その後関ヶ原の際、西軍に与したことにより会津120万石から米沢30万石に削封され、幕府への遠慮もあって天守を建てることもありませんでした。領地が一気に4分の1になったにも関わらず、それに見合った家臣のリストラを行わなかったため、藩の財政はかなり窮乏することとなりました。ここに後の鷹山が登場する下地が作られたわけですね。藩の状態がこのようなものでしたので、米沢城自体もいたって地味なんですよ。米沢城址に隣接している上杉伯爵邸の庭は美しい庭園です。鷹山ファンなのでしたら、米沢を訪れる価値は十分あると思いますよ。米沢を訪れた謙信ファンの方は一様に史跡の少なさにがっかりしますが、米沢市としては鷹山の方にはかなり力を入れていますので、こちらの見所は結構あると思います。
( 地蔵)さんより
最終的に15万石まで減ってるはずなんだけど、なぜか米沢30万石と大々的に宣伝してました(笑)。景勝公往時の建物はまるで残ってないので、上杉神社、明治期の伯爵邸(現在は高級な料亭)あたりが見所かな。
( 長利智祐)さんより
米沢城本丸の周りの堀は残ってますが、建物はなし。資料館があって謙信公、景勝公、鷹山公などの遺品が見られます。めぼしいところでは刀と、名前ど忘れ(大刀に長柄を付けた武器:すいません補足してください)、それから甲冑がありました。そうそう、頭に「愛」の文字が入った直江さんの甲冑もありましたよ。
( 長利智祐)さんより
米沢城史苑の中に2軒(ステーキ中心の洋風レストランとすきやきなど和食中心の食堂風の店)あります。米沢牛が食べられます。これがとてもうまい!ただ開くのがちょっと遅目の時間なので、こちら目当てに行くならお昼以降かな。
( 長利智祐)さんより
城趾苑には家臣の名前が入ったのぼりが売ってます。好きな上杉家臣の名前を買うのも良いかも。
( 都馬)さんより
新暦で謙信の命日にあたる4月29日から5月3日まで、上杉まつりがやってます。最終日には川中島合戦をするので武田ファン方もかなり楽しめます。(でも、やっぱり主役は上杉)
( 都馬)さんより
宮坂考古館という民間の資料館が有りますが、上杉祭りやそのほかの米沢の祭りで使う火縄銃が展示されています。地元の人が言っていた話ですが上杉祭りが終わった後、火縄銃(火縄銃保存会の人も)は4日にある長篠の鉄砲祭りへ貸し出しされるそうです。
( 都馬)さんより
「林泉寺」上杉家歴の菩提寺であり、直江山城守夫妻の墓、甘利備中の墓、武田信清の墓が有ります。
( 都馬)さんより
米沢城の遺構は、本丸、土塁、堀。見どころは、この土塁、堀などの縄張りと上杉家廟所。
( shirofan)さんより
あまり知られてはいませんが、米沢には前田慶次の庵の跡や、槍、甲冑、道中記、和歌集、茶器、供養塔などがあります。一度全部めぐってみるのもいいかも。
( kaz)さんより
林泉寺について記載します。昔は随分広い境内だったようですが、周りの田圃を潰して住宅が迫っています。今では田圃の中に住宅、そして突然の杉木立があり、妙な違和感がありました。杉林も太い切り株が多数有り、時代と共に小さくなってきてしまったようです。ただし、雰囲気は確かにあります。直江兼次夫妻・武田夫人・武田信実?・会津夫人(保科正之の娘)や魚津で戦死した武将など、境内には説明版がかなりあります。墓の形状を見ながら、探し回ってください。境内では米沢名産の木彫りを実演販売してます。(その方の作品は以前お年玉年賀切手の図案にもなったそうです=背景が水色で鶏の木彫りのヤツです)なお、林泉寺の隣が山形大学工学部、昔の学校の建物(名前失念)だそうです。林泉寺は米沢城から歩いていけますが、そこから上杉廟所は車がいいです。歩いたらかなりあります。
( のぶのぶなが)さんより
城があった周辺は、見どころ満載です。上杉伯爵邸では米沢の郷土料理が食べられますし、伝国の杜では上杉家の歴史を楽しみながら知ることができますよ。上杉城史苑では、米沢牛や郷土料理のレストランと、物産品もほとんど揃ってます。春の上杉まつりの頃はお堀周辺の桜並木がきれい!鯉もたくさん泳いでいて、売店でGETした餌をあげると楽しい。子供連れにはおすすめ。ここから徒歩5分くらいのところにある、米沢織物の資料館も楽しい。2月は雪灯篭まつりで、城跡周辺は冬の浪漫たっぷりです。
( nao)さんより
伊達政宗、直江兼続、上杉景勝もここ米沢城にいた。現在は建物は無く堀や土塁を残しいている。暦仁元年(1238)、大江広房がこの地の地頭になったころに、館を築いたのがはじまり。最初は領主とその家臣の館の集落に過ぎなかった。やがて伊達氏によって大江氏は滅亡、伊達氏の城となる。天文17年(1548)、伊達晴宗はそれまでの居城だった西山城からこの米沢城に本拠を移し大改修を行ったと云われている。
政宗の代になり天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原討伐を期に、秀吉によって陸前岩出山58万石に転封を命じられ、米沢城はじめ諸城を蒲生氏郷の一族の蒲生郷安に開け渡した。その後、越後春日山領主、上杉景勝が会津に転封となり米沢城には、その重臣、直江兼続が入る。この時、名を舞鶴城と改め、さらに城が整備されることになる。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍に属した上杉景勝は、会津120万石から四分の一の米沢30万石に減封され、それに見合うよう慶長6年(1601)から13年をかけ米沢城を修築することになる。徳川幕府に対する配慮もあり、天守の代わりに三層の櫓、そして簡素な建物と、30万石の城とは思えない小規模な城にダウングレードする。その後、上杉氏十三代の居城して明治を迎え、明治6年、城は取り壊されその命を終えることになる。
米沢城は、盆地の中の平城といったロケーションで、要害の城という言葉はとても当てはまらない。伊達氏が210年あまりと長くこの地を治めており繁栄したことを考えると、守りよりも新領地を求め外へ侵攻していっていたからかもしれない。現在は松岬公園となって本丸の一部が残っている。公園内には、松岬神社、上杉博物館があり、上杉謙信が着用した鎧など上杉ゆかりの品々が展示されている。御廟一丁目の上杉謙信の廟には、甲冑とともに謙信の遺骸もそこに眠る。
( shirofan)さんより