写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
明智長山城の歴史と見どころ
地元、可児市発行の「戦乱の世に消えた明智城」A3二つ折りパンフレット。見所がまとめられている。
明智長山城周辺の史跡を訪ねて
「天龍寺」明智家菩提寺伝えられ、明智一族の墓や光秀の位牌(光秀の位牌では日本一の大きさで184cm)がある。または、落城のとき戦死した明智七武将を葬った塚である七ツ塚。お城ではJR恵那駅乗換、明智鉄道沿線の岩村城、明知城(白鷹城)など。
明智長山城のアクセス・所在地
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
明智長山城に寄せて
これまでに届いた声:全4件

康永元年(1342)、明智次郎長山下野守 頼兼により築かれた城。215年後の弘治2年(1556)に斎藤義龍の攻撃を受け落城し、この時、光秀は明智城から逃れたと明智軍記にあるが証明するものは無い。別名は長山城と言うが、標高170mほどの山が長くつらなっていることからその由来。本丸跡や、曲輪・土塁などの遺構が残っている。
( 又兵衛)さんより
別名を長山城、または明智城と言い、明智光秀の居城であったと伝えられる中世の平山城です。明智城は、恵那市明智町城山とここ可児市瀬田長山の2つあり、どちらが明智光秀出生の城なのかそれを決定的に裏付ける資料はありません。
( 又兵衛)さんより
明智光秀は11歳で城主となり、29歳のとき、明智長山城が落城したらしい。
( 明智光秀)さんより
令和2年6月13日、明智城本丸跡に高さ約2m30cmの明智光秀のブロンズ像が造られたそう。
( 北のまほろば)さんより