写真:岡 泰行

岐阜城の歴史と見どころ

斉藤道三以前は、地名を「井の口」、城の名を「稲葉山城」といった。1201(建仁元)年、二階堂行政により館が構えられ、その後、藤原朝光が入り、次に朝光の次男、三男と入った。この三男の名を稲葉光資といい、稲葉の城、つまり「稲葉山城」と名付けられたのである。1259(正元元)年頃に、廃城となっているが、1400(応永7)年頃、美濃土岐氏の守護代、斎藤利永が城を整備し居城するも、加納城を新しく築城し、また廃城となっている。これから約90年後、斎藤道三がこの地に目をつけ、稲葉山城を修築、美濃をその統治下に一大勢力を築きあげることになる。

1567(永禄10)年、斎藤龍興の代に信長に攻められ斎藤氏は終わる。それから約10年間、信長は岐阜城を本拠地とした。宣教師ルイス・フロイスの記録にも、千畳敷と呼ばれる御殿の美しさが特記されており、信長が豪華な城づくりに専念したことがうかがえる。

岐阜城二ノ門下の二段石垣
二ノ門下の二段石垣(2018年度出土)。現在もあちこちで当時の石垣の発見が相次ぐ。

岐阜城山麓の織田信長居館跡
昭和59年から発掘調査が行われた信長公居館跡では、土塁や巨石列、庭園跡などが見られる。

1576(天正4)年、安土城を新しく築くと、岐阜城には長男である信忠が入るが、本能寺の変で倒れ、あとに三男神戸信孝が入った。だが秀吉との争いで開城し、その後も池田輝政、羽柴秀勝などが入り、1592(文禄元)年には織田秀信が入城した。その秀信も1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで西軍につき落城、その翌年、岐阜城は廃城となり命を終える。岐阜城の資材の多くは加納城に転用された。天守は信長時代、3〜5層のものがあったと言われ、これも加納城の隅櫓に転用されたという。

岐阜城の復興天守
金華山山頂に建つ信長時代の天守様式を参考に設計された復興天守。

現在、山麓に信長の館跡、山頂に復興天守が建ち、その山頂に登れば美濃がどんなに豊かな土地で、稲葉山城がどれだけ重要なところに建てられたかが分かる。斎藤道三がその門前で果てたと言われる崇福寺には、信長の位牌があり、また岐阜城の血染めの床板が使用されている。

発掘調査案内所

岐阜城で出土した矢じり
麓にある発掘調査案内所で、最新の発掘成果を知ることができるぞ。CG映像の上映なども。現地体験タブレットの貸し出しも行っている。案内所は9時〜16時まで。または、岐阜市立博物館に。鵜飼いの展示に力を入れているが、織田信長館の復元CGや加納城の復元模型がある。

今後の岐阜城の整備

2021年12月、金華山の山上部の樹木を伐採し戦国時代の姿に復元する計画が岐阜市から発表された。2022年から約3年をかけて行われる。石垣も城下から見られるよう当時の姿にする。範囲はロープウェー山頂駅から天守閣付近までで、樹木の伐採は周辺への影響を確認しながらのため10年以上かけて進められる。

岐阜城跡石垣マップ

岐阜城山上部と山麓部の戦国時代の主な石垣を紹介したマップ『史跡岐阜城跡石垣発見伝』が2021年6月に岐阜市文化財保護課によって制作された。日本遺跡・信長居館発掘調査案内所で、または岐阜市文化財保護課のWebサイトでGETできる。A3判三つ折りカラー。

岐阜城の散策コース

岐阜城は金華山の山頂にその天守閣があるので、ロープウェイと天守閣営業時間のチェックを念のために。ロープウェイ・天守閣ともに、年中無休でおおよそAM9:00~PM6:00といったところだが、季節により1時間早くなったりと、やや変動がある。ロープウェイの時刻表は、平日は15分おきに休日は10分間隔でと頻繁に出ている。ただ、ごくまれにロープ交換で2日間ほど休業していることがあるので注意が必要だ。また、金華山を体感するには帰りは登山道を降りても面白い。馬の背登山道、七曲がり登山道(大手道)など10の登山道がある。

岐阜城の撮影方法

天守最上階から信長も見た風景を

岐阜城天守から京都を望む天守最上階から望む長良川と美濃平野。この平野を手中に収めると天下が見えてくるのがよく分かる規模。まさしく『国盗り物語』の風景だ。信長も見た景色で長良川の先に、京都がある。夕暮れ時、金色に輝く京都を夢見たのではないか。筆者撮影の長良川の風景は、岐阜城のポスターでも採用されたので現地で発見を。

2018年から新アングル登場

岐阜城天守と石垣2018年には、石垣保護のため天守前の木々が伐採され眺望が良くなった(ページ冒頭の写真)。この石垣は戦国時代のものだ。一時的ではなく、今後はこの風景がずっと見られる。天守石垣前の紅葉樹以外は今後伐採の可能性がある。石垣は間詰め石がかなり抜け落ちているらしい。

岐阜城のロケーション

山頂から天守を狙うのは、天守が南向きなので特に問題はない。岐阜城は、天守がその金華山の頂にあり、天然の要害である長良川が山裾を流れているのが特徴。となると遠景写真は、長良川対岸から金華山と岐阜城天守をセットで写すと、その険峻さと立地が分かりやすく美しい。西側から望むことになるので午後の撮影が良いぞ。例えば岐阜グランドホテル前の河原から鵜飼ナメで。

岐阜城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る岐阜城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

岐阜城の関連史跡

麓の信長公居館跡は必ずチェック。また、岐阜城の西にある崇福寺(そうふくじ)も見ておきたい。信長の位牌・土岐頼芸の鷹の水墨画、清洲城の鯱、そして血天井がある。血天井は本堂の天井板に使用されているがもとは岐阜城の血染めの床板。岐阜城最後の城主、織田秀信の将兵38名が腹を切ったところの板だそうで、霊を弔うために天井に使用したとか(血痕が付着しているのが確認できる)。岐阜城より西へ車で3分、場所は長良福光。

そのほか、崇福寺の西約300mの住宅地に斉藤道三の墓「道三塚」、斉藤道三の菩提寺「常在寺」、「織田塚」など。お城では、斉藤道三の隠居城の鷺山城、岐阜城天守が移築されたとされる加納城や、秀吉が築いた砦の墨俣城が近い。
[半兵衛 (1997.03.30)]
[大紀 (2000.01.18)]

岐阜城のおすすめ旅グルメ

この地は鮎料理・味噌とんかつ・うなぎでチョイスを。だが城から徒歩圏で食べられるところが無い。もっとも簡単に済ませたいという時は、山頂の展望レストラン(お味は大衆食堂風)でカレーライスなどを。

岐阜城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

金華山と、長良川・長良橋・金華橋などの橋、岐阜城の3点セットが窓から見える旅館は値が張る。名古屋近辺のビジネスホテルが安いぞ。

岐阜城のアクセス・所在地

所在地

住所:岐阜県岐阜市金華山天守閣18番地 [MAP] 県別一覧[岐阜県]

電話:058-263-4853(岐阜城)

開館時間

8時30分~17時30分(5月12日~10月16日)、9時30分~16時30分(10月17日~3月15日)、9時30分~17時30分(3月16日~5月11日)。※季節により夜間営業あり。入館料200円(岐阜城資料館と共通)。年中無休。

アクセス

鉄道利用

JR東海道本線、岐阜駅または名鉄岐阜駅下車、長良川線バス15分「岐阜公園」または「歴史博物館前」降車、徒歩3分で信長公居館跡。信長公居館跡の隣りに乗り場があるロープウェイで山頂へ。

マイカー利用

東海北陸道、岐阜各務原ICから、国道21号線を西へ、国道256号線へ北上、岐阜城を目指す。駐車場は4ヶ所、岐阜公園駐車場・岐阜公園堤外駐車場はいずれも有料、岐阜公園堤外駐車場(河川敷)は無料で2ヶ所ある。

城ファンの気になるところ (19)

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    「岐阜城」といえば織田信長以降で、別名である「稲葉山城」といえば斎藤道三以前と言われている。「岐阜」という名は、織田信長が天下布武を目指し名付けたもので、周の文王が岐山に起こって、天下を収めたという故事がその由来。

    ( 光秀)

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    岐阜城天守は、後の加納城の隅櫓に転用されたようです。岐阜の城主になった人は必ず滅んでますよね、なんでもその原因が、天守にあるそうで、道三時代、築城時に城のヒミツを知っている大工を生き埋めにしたそうです。その大工が代々たたってやる〜と言い残したそうで、加納にうつされてからも、その軒下をくぐった人は、なんらかの形で死ぬと言われていたそうです。

    ( 左近)

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    岐阜城の難攻不落さを体感するなら、徒歩で下山を。いくつかあるコースのうち「馬背登山道」か「瞑想の小道」を。岩場の急勾配。正当派は徒歩約1時間と距離があるが大手道である「七曲りコース」を下って大手門跡をチェック。

    ( 半兵衛)

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    毎年7月最後の土曜日、8月最初の土曜日は花火大会。長良橋と金華橋との間から打ち上げられ河原から見られる。花火の音が金華山にこだまする。

    ( 半兵衛)

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    金華山の東方の山麓にある、達目洞という大きな谷は、観光コースにもなっていない岐阜城の遺構だそうです。現実に、石を盛った集石や、虎口と思われる石垣が確認できます。また、人為的に築造された石組みの井戸などもあります。また、長良川沿い、東方、日野に伸びる支尾根上(天守から縦走する峠道)の途中にも規模の小さな石垣があります。たぶん先述の達目洞とともに、斎藤道三時代の家臣屋敷だと考えられます。以上に関しては、どの資料にも記載がなく、金華山そばの高校に通っていた時に発見したかすかな記憶です。

    ( 一鉄)

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    斉藤道三、義竜、龍興、織田信長、信忠、信孝、池田勝入斉、織田秀信と末期が哀れですね。伊奈波神社の祟りかな天守閣の部分は前は上社だったらしいのです。神様の岩(天守の正面下)を石垣に組み込んだ罰なのかもしれない。

    ( nozawa)

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    長良川に係留してある鵜飼いの船の屋根には、織田氏の家紋が入っていました。土岐氏・斉藤氏の家紋は、確か無かった様な気が…。

    ( りょうさん)

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    童友社のプラモデル「日本の名城シリーズ岐阜城」は名作。信長時代の天守はもちろん、米倉や井戸郭まで再現してあってリアル。何より山城のプラモデルというところが興味をそそる。

    ( にゃんこ)

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    1997年にリニューアルされた岐阜城は、当初は朝までライトアップされていたが、今では午後11時までらしい。

    ( 半兵衛)

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    ロープウェイ乗り場で売っている金屏風風「道三信長時代の岐阜城」横長ポスター、メチャクチャかっこいい。私も部屋に貼っています。

    ( 廣瀬康之)

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    何よりも山頂からの眺めで美濃平野のスケールを体感すべし。この平野を手中に収めると天下が盗れるのが分かるパノラマ。地元の古老によると昔は空気が澄んでいたため、遠く名古屋も見渡せたそうな。もちろん墨俣も。信長が攻めてくるなどその動きは、金華山からは手に取るように見渡せたに違いない。この地に城を築くセンスに脱帽。

    ( 半兵衛)

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    城跡というより、観光地化されていて少し残念って感じでした。ちょっと発見したところは人為的作られた井戸の上に石積が確認できました。ちょうどその上は通路になってコンクリートが盛られていましたが、石積は当時に作られたように感じましたが…。

    ( Jin君)

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    秀吉千成瓢箪誕生の地・岐阜城弁天岩から気象台塔までの間を探索中、崖下の郭に井戸跡を発見!

    ( 大紀)

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    信長居館跡は、以前は千畳敷と呼ばれていました。今は、虎口や土塁が復元整備されていますが、敷地内にある水の湧く庭は、そのほとんどが信長によって造園されたものに手を加えたものです。また信長は、居館の前の内堀のほか、城下の南北を包む形に長良川から運河を堀削し、その内側に土塁を築いて惣構としたわけですが、当時のまま、水路として活用されていて、それは、護国神社前あたりから辿ることが可能です。また、護国神社へ行く途中には、御手洗の池という小さな池があり、斉藤時代には、その上方が伊奈波神社の本社だったといいます。岐阜城落城の際(織田時代)女中たちが身を投じ、蛙になったという伝説もあります。

    ( 稲葉城兎)

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    天守閣は復元ですし、城そのものの見所は少ないと思いますが、山頂までの登山道が何本かあり、一番北側の初心者向きの登山道を登りました。途中で見える長良川の景色はすばらしく、小さな滝があり、休憩できる場所もところどころにありました。戦国武士になった気分で手軽に山歩きが楽しめます。お子さんづれでも大丈夫ですが、小学校高学年以上でないとちょっとつらいかもしれません。

    ( 山県一郎兵衛)

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    地元の人たちに色々聞いて、先日行ってきました。見どころは天守閣からの夜景だそうです。夏のみで午後9時まで入れるそうです。通常は午後5時頃に閉まってしまうので夜景は見れませんでしたが、それでも天守閣からの眺めは最高でした!

    ( 中村友美)

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    金華山ドライブウェイをたどれば、フロイスの言った大堀切りにたどりつけます。場所は尾根に一番近くなる場所。七曲が沢上がりから尾根上がりに変わるところ。城ファンなら行くべし。

    ( nozawa)

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    7月4日ロープウェーで上がりました。どうせ観光地化された土産屋ばかりで大した事ないと期待薄でしたが天守から見た風景に絶句しました。信長、半兵衛、一鉄等が京都を目の前にどんな思いで同じ風景を観ていたかと思うと涙が止まりませんでした。名古屋城の天守からみる景色が官僚のみる景色ならば岐阜城からみる景色はまさに天下人がみる景色だと思いました。石垣も必見。こんなところに城を築くなんて流石道三です。川の位置、山、方角は風水的にも抜群で当時の軍師のレベルの高さを思わせる感動の城です。

    ( 信長大好き親父)

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    鵜飼で知られる長良川のほとりにある、標高329mの金華山(稲葉山)。濃尾平野を広く見渡す山頂の復興天守は、岐阜市のランドマークとなっている。鎌倉期にも城があったといわれるが定かではなく、歴史の表舞台に登場するのは300年ほど下った戦国時代。父から2代に渡り美濃国を「盗った」と言われる斎藤利政(としまさ)(後の道三(どうさん))が天文8年(1539)、城を拠点にしたという。約10年後、道三の娘(濃姫)が織田信長に嫁している。
    永禄10年(1567)、信長は道三の孫、龍興(たつおき)が城主となっていた稲葉山城を攻略。城下町の呼称は井口(いのくち)から岐阜に改められ、城も岐阜城と呼ばれるようになった。ここから信長の「天下取り」が始まる。永禄12年(1569)に城を訪れたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが、著書「日本史」に町の賑わいや屋敷の豪華さなどについて記している。
    天正4年(1576)、信長が安土城に移ると、子の信忠が城主となった。信長、信忠が本能寺の変で死去した後、城主はたびたび替わる。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦で当時の城主、織田秀信(信長の孫)が東軍に攻められ落城すると廃城となり、天守や櫓、石垣などは加納城に移されたという。
    時代は下って明治43年(1910)、山頂に木造の模擬天守が建てられたが、後に焼失。昭和31年(1956)、現在の姿の天守が再建され平成9年(1997)の大改修を経て今に至る。

    ( shirofan)

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