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墨俣城(墨俣一夜城)は、永禄9年(1566)に織田信長の命で木下藤吉郎が築いたと伝わる城。長良川の渡河点に近い平地に築かれ、犀川や長良川などの河川を天然の外堀とした立地が特徴だ。現在は墨俣一夜城址公園として整備され、歴史資料館や長良川堤の景観が広がる。このページでは墨俣城の歴史や構造、城跡の現在を豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
墨俣城の歴史・見どころ
墨俣城は、永禄9年(1566)に織田信長の命によって築かれたと伝わる城である。築城を担ったのは木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)で、短期間で完成させたことから「一夜城」の名で広く知られる。
当時の墨俣は、現在とは河川の流れが大きく異なっていた。東からは木曽川が流れ、西からは犀川(長護寺川)・五六川・糸貫川・天王寺川などが集まり、この地で長良川へ合流していた。複数の川が入り組む地形は、まさに「洲の俣」のようであったとされる。この場所は古くから長良川の渡河点として軍事・交通の要衝であった。
織田信長は、美濃の斎藤氏攻略を進める中で、この地に拠点を築く必要を感じていた。斎藤道三の死後、美濃では斎藤義龍、その子・龍興が勢力を保ち、信長軍との戦いは一進一退の状況が続いていた。信長は美濃攻略の拠点として墨俣に目を付けた。
当初、佐久間信盛が築城を試みたが斎藤軍の攻撃を受けて失敗。続いて柴田勝家が工事を進めたが、これも同様に挫折した。三度目の築城を任されたのが木下藤吉郎である。
藤吉郎は、東尾張で資材を集め、木曽川左岸であらかじめ建築部材を設計図通りに組み立ててから、川を利用して運搬する計画を立てた。蜂須賀氏ら二~三千の野武士を掩護隊として配置し、周囲に木柵を設けて防御を固めながら工事を進める手法をとった。
永禄9年(1566)9月1日に材木を筏(いかだ)に組み、5日早暁に墨俣へ到着。斎藤龍興が八千の軍勢で妨害を試みたが、信長自らが巡視して防戦と工事を監督した。その結果、数日のうちに櫓・塀・堀が整えられた。この短期間の完成が「一夜城」の由来である。
完成後、信長は藤吉郎を墨俣城の城将に任じ、これが後の稲葉山城(のちの岐阜城)攻略へとつながっていった。
墨俣城の特徴と構造
墨俣城は平城であり、河川を巧みに利用した構造であった。北を犀川、東を長良川で守り、南は中町・本町の南付近、西は西町八幡社付近から犀川の水を引き入れて外堀とし、天王橋付近まで水堀をめぐらせていたと伝わる。
記録によれば、長屋十棟、櫓十棟、塀二千間、木柵五万本が構築されたとされる。しかし現在、当時の遺構はほとんど残っていない。昭和初期の河川改修により、約一万坪(約3万3000㎡)あった城地の半分ほどが失われたためである。
墨俣城の整備状況
現在の城跡は「墨俣一夜城址公園」として整備され、内部は歴史資料館となっている。河川改修により地形は変わったが、長良川と犀川の合流点に近い立地は、当時この地が軍事・交通の要衝であったことを今に伝えている。
参考文献:
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- 大垣市Webサイト「墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)」
墨俣城の撮影スポット・絶景ポイント
長良川側から天守を望むと良い。電線が邪魔するのでアングルには気をつけて。
墨俣城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、墨俣城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
墨俣城周辺の観光スポット・史跡めぐり
墨俣光流山本正寺に残る移築脇本陣門、墨俣本陣跡の石碑など。城では、岐阜城、加納城跡、川手城跡、鷺山城跡が近い。
墨俣城から広がる城めぐり
秀吉の出世城
秀吉の歩みを城でたどるなら、墨俣城はその重要な一角だ。
蜂須賀正勝ゆかりの城
蜂須賀正勝が関わった主要な城を訪ねる。
墨俣城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742
県別一覧:[岐阜県]
電話:0584-62-3322 墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)
- 墨俣一夜城公式サイト(大垣市墨俣歴史資料館)
アクセス
鉄道利用
JR東海道本線、穂積駅下車、タクシー5分。または、JR大垣駅下車、バス「墨俣」降車、徒歩10分。
マイカー利用
名神高速岐阜羽島ICより10分。川の土手に駐車スペース若干有り。
墨俣城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
墨俣城の想像模型
秀吉が築いた頃の墨俣城の様子を知るには、清洲城にある墨俣城の縄張りの想像模型を見ておくと良い。
墨俣城:城ファンの知見と記録
墨俣城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全4件)。







墨俣城は、戦国時代に尾張と美濃の境、木曽川沿いに築かれた城として知られている。最も著名なのは、永禄年間(1558〜1570)に織田信長が美濃攻略の拠点とした「墨俣一夜城」の伝説だ。築城を任されたのは、若き日の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)であり、一夜にして砦を築いたという逸話は、出世物語として今なお語り継がれている。実際には、舟による部材の事前搬入と迅速な築造があったと考えられる。この地は美濃・斎藤氏との攻防の最前線に位置し、信長の戦略における重要な一歩となった。現在は模擬天守が建ち、城址公園として整備されており、秀吉ゆかりの地として親しまれている。
墨俣一夜城に架空説があることは忘れてはならないでしょう。「信長公記」には墨俣の地名が別件で出てくるのみ。秀吉の事跡を書いた「たいこうさまぐんきのうち」にも登場しません。脚色のため信頼度が怪しいとされる「信長記」「太閤記」にも登場しません。唯一「吉田家文書」(前野家文書ともいいます、「武功夜話」など)に出てきますが、肝心の一夜城関連の部分は偽書説があります。明確な初出は、さらに脚色が増えた18世紀末の「絵本太閤記」だったかと。
脇に流れ込む犀川には桜並木があり、春は花見の名所です。
秀吉の出世の糸口と言われ、信長公記にも書かれている墨俣城(一夜城)。勿論当時は砦のようなもので、天守閣なんてなかったけど、現在は立派な天守閣が建ってます。又天守閣から見る岐阜城。大垣方面。濃尾平野と、何故信長がここに築城をこだわったのかよく分かるロケーションにこの城は建っています。