野田城の歴史・見どころ

野田城の歴史

野田城(のだじょう)は、三河菅沼氏一族の菅沼定則が永正13年(1516)に築城したと伝わる。定則は当初、南東約1kmにあった野田館に居住していたが、たびたび水害を受け、防備も十分ではなかったことから新たな城郭を築いた。一方、吉田城長篠城と築城時期が近いことから、東三河に勢力を及ぼしていた今川氏の影響下で築城された可能性も指摘されている。

享禄2年(1529)、定則は松平清康の東三河侵攻に際してその配下に加わったが、天文4年(1535)に清康が没すると再び今川方となった。永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、翌年には松平方へ転じた。同じ永禄4年(1561)には今川氏真の攻撃を受けて野田城が落城する。その後も城主の菅沼定盈(さだみつ)は徳川方として今川氏や武田氏からたびたび攻撃を受けた。

野田城を歴史上とりわけ著名にしたのが、元亀4年(1573)の「野田の戦い」だ。前年の元亀3年(1572)、三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利した武田信玄は西へ進み、翌年に徳川方の野田城を攻撃した。『日本城郭大系』によれば、武田軍の攻撃に対して野田城は20日余りにわたって抵抗し、このため武田方は西南の谷から金掘り人夫を使って掘り進め、城内の井戸水を抜いたと伝わる。最終的に野田城は落城した。

この戦いには、城内から聞こえる村松芳休の笛の音に誘われて城へ近づいた信玄を、城兵の鳥居三左衛門が火縄銃で撃ち、その傷が信玄の死につながったという伝説も残る。信玄を撃ったとされる火縄銃は「信玄砲」と呼ばれ、新城市指定文化財となっている。

元亀4年(1573)の戦いで野田城は大きな被害を受け、定盈は城を修理する間、一時的に居城を大野田城へ移した。天正3年(1575)、定盈は長篠・設楽原の戦いに織田・徳川方として参戦した。その後も野田城は存続したが、天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴う城主の移封によって廃城となった。

野田城の特徴と構造

野田城は、本宮山麓から南東へ延びる舌状台地の先端部に築かれ、南側を東西に通る伊那街道を押さえる位置にある。東西には谷が入り込み、周囲との比高は約18mを測る。城内は南北に並ぶ3つの曲輪からなる連郭式で、最南端の主郭を中心とする。

主郭は約60×47mの長方形で、土塁と堀を備え、内部には井戸が残る。虎口前面には馬出し状の広場がみられ、土塁から横矢を掛ける構造となっている。中央の曲輪は約50m四方で、主郭とは土橋で結ばれ、北側には堀跡とみられる約1.5mの段差が残る。

最北の曲輪は約40m四方で、土塁状の高まりや溝状の窪みが確認され、古絵図から馬出しが設けられていたと推定される。各曲輪の東側には切岸と犬走り状の平坦面が連続し、度重なる攻防を経て、元亀4年(1573)の野田の戦いまでに籠城戦を意識した縄張りへ強化されたと推測されている。

野田城の整備状況

野田城跡は昭和33年(1958)4月1日に新城市指定史跡となっている。現在は主郭をはじめ、土塁、堀、虎口、井戸など城郭の構造を示す遺構が確認できる。中央の曲輪は後世の開墾などによって地形が改変されている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
  • 『野田城』(新城市設楽原歴史資料館)
  • Webサイト「野田城跡」(新城市)

野田城周辺の観光スポット・史跡めぐり

野田城移築城門

野田城の城門を移築したと伝わる門で、現在は法性寺の山門として残る。野田城の建築遺構を伝える貴重な存在として、城跡とあわせて訪ねたい歴史スポット。

設楽原決戦場

野田城から北東へ約7km。天正3年(1575)、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠・設楽原の戦いの主戦場。長篠城とあわせて巡ることで、野田城の戦いから続く武田氏と徳川氏の攻防をたどることができる。

野田城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:愛知県新城市豊島本城 [地図を見る]

県別一覧:[愛知県の城]

電話0536-22-0673(新城市設楽原歴史資料館)

アクセス

鉄道利用

JR飯田線「野田城駅」下車、徒歩約20分。

マイカー利用

新名神高速道路「新城IC」から西へ14分(9.3km)、または、東名高速道路「豊川IC」から北東へ12分(7.6km)。野田城跡専用駐車場(無料・5台)を利用する。

地図