萩城の歴史・見どころ

萩城の歴史

関ヶ原の戦いは、毛利氏の運命を大きく変えた。慶長5年(1600)、西軍の総大将格であった毛利輝元は、戦後、それまで領していた中国八か国112万石余りから、周防・長門二か国36万9千石余りへと領地を削減された。広島城を離れた輝元は、新たな本拠を防長両国のどこに置くか、その城地を探すことになる。

候補となったのは、山口の高嶺、防府の桑山、そして萩の指月山だった。輝元は福原広俊を江戸へ派遣し、三か所の絵図を幕府に提出。慶長9年(1604)2月、萩の指月山麓に築城することが正式に認められた。同年4月には輝元自身が萩を訪れて地勢を調べ、6月1日に縄張りを行い、本格的な築城が始まった。

工事は、東側と指月山頂の詰丸を吉川広家、西側を毛利秀元が担当した。宍戸元続、益田元祥ら重臣が総宰を務め、大小の家臣を動員して築城を進めた。木材は萩周辺をはじめ阿武郡などから集め、石垣には主として指月山の花崗岩を使用。瓦は和泉の堺周辺からも大量に運び込まれ、萩でも製造された。

築城は急ピッチで進められ、同年11月11日、輝元は完成を待たず新城へ入った。この時、本丸御殿は式台・対面所・御座の間などを除けば、まだ十分に完成していなかった。翌慶長10年(1605)には家臣の屋敷地を定めて町割りを進め、寺社も建立されるなど、城とともに城下町の姿も整えられていった。そして慶長13年(1608)、築城工事は完成した。

こうして萩城は毛利氏の新たな本拠となり、250年余りにわたって防長統治の中心を担った。しかし幕末を迎えると、その役割にも終わりが近づく。文久3年(1863)、13代藩主毛利敬親は、日本海に面した萩が海防上不利なことや、国事を処理する必要から藩庁を山口へ移した。これに伴い萩城の政治的重要性は薄れ、御殿などの建物も次第に解体されていった。

明治4年(1871)には北・中・平安古の三総門が解体され、明治6年(1873)には政府から萩城の払い下げ令が下された。翌明治7年(1874)、五層の天守をはじめ櫓や門なども破却された。広島を離れた毛利氏が新たな本拠として築き、幕末まで防長二か国を治めた萩城は、石垣や堀、指月山上の詰丸にその姿を残している。

萩城の特徴と構造

萩城は、阿武川下流の松本川と橋本川に挟まれた三角州の西北端、指月山とその南麓に築かれた平山城。山麓に本丸・二の丸・三の丸を配し、標高約145mの指月山頂に詰丸を築いた。本丸は東西約200m、南北約145m、二の丸は東西約278m、南北約106m、三の丸は東西約981m、南北約655mに及んだ。

本丸には藩主の御殿や諸役所が置かれ、高さ約11mの天守台には高さ約14.5mの五層天守が建っていた。本丸を囲む二の丸には13か所の櫓が置かれ、その外側に広がる三の丸には藩の役所や重臣の屋敷を配置。三の丸は新堀川などの堀によって城下町と区画され、北・中・平安古の三総門が設けられていた。

指月山頂の詰丸は狭いながらも本丸と二の丸に分かれ、周囲に土塀を巡らせ、櫓や貯水施設を備えていた。現在は本丸の天守台石垣や内堀、二の丸の石垣などが残り、山頂の詰丸でも石垣や土塀、二か所の貯水施設を見ることができる。指月山には築城時の石材を切り出した痕跡も残り、山麓の城郭と山頂の詰丸を一体とした萩城の構造を今に伝えている。

萩城と指月山
指月山の南麓に本丸を構え、山頂に詰丸(要害)を築いた萩城。平城(山麓)と山城を一体化させた城郭構造を今に伝えている。
萩城天守台
本丸に残る高さ約11mの天守台。かつてはこの上に高さ約14.5mの5層天守がそびえ、明治7年(1874)の解体まで威容を保っていた。
萩城潮入門跡
二の丸東側の海岸沿いに設けられていた潮入門の跡。海に面して築かれた萩城ならではの「海城」としての縄張を今に伝えている。
萩城指月山詰丸跡虎口
指月山頂の詰丸に設けられた虎口。山上に良好な石垣が残り、萩城が平城部だけで完結しない複郭構造の城であったことを示している。
萩城指月山詰丸跡の石丁場跡
指月山頂の詰丸に残る石丁場(採石場)跡。築城に用いた石材の切り出し痕が残り、母岩にはクサビを打ち込んだ「矢穴列」を観察できる。
萩城北の総門
三の丸と城下町を結んだ三総門のひとつ。萩開府400年にあたる平成16年(2004)に当時の姿へと復元された。
萩城御船倉
萩藩の御座船や軍船を格納した船倉遺構。屋根を架けた石壁造りの船倉が現存しており、当時は松本川河口から直接船を引き入れることができた。

萩城の整備状況

萩城跡は昭和26年(1951)に国指定史跡となり、現在は「萩城跡指月公園」として一般に公開されている。本丸では天守台石垣や水堀、本丸門跡の石垣、雁木などが残り、指月山頂の詰丸へは登山道が整備され、石垣や貯水施設、石切場跡などを見学できる。三の丸では、萩開府400年にあたる平成16年(2004)に北の総門が復元された。本丸一帯は現在、桜の名所としても親しまれ、城跡の石垣や水堀とともに美しい景観を見せている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系14』(新人物往来社)
  • Webサイト「萩城跡」(萩市観光協会)

萩城の撮影スポット・絶景ポイント

萩城の代表カットは、天守台を望む風景を押さえておきたい。南向きのため撮影時間を大きく選ばないが、順光となる朝から昼頃が狙いやすく、夕方は避けたい。指月山頂の詰丸には築城時の石丁場が残る。ここは光の強い晴天よりも曇天に足を運び、矢穴が走る母岩に近づいて、その迫力ある姿を捉えておきたい。

萩城の写真(城写真ARCHIVE)

城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、萩城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。

萩城周辺の観光スポット・史跡めぐり

大照院・萩藩主毛利家墓所

大照院・萩藩主毛利家墓所萩城から毛利氏の歴史をさらにたどるなら、訪ねておきたいのが大照院。萩藩2代藩主毛利綱広が、父である初代藩主毛利秀就の菩提所とするため再建した毛利家の菩提寺で、墓所には秀就をはじめ、2代から12代までの偶数代藩主と夫人、一族の墓が並ぶ。600基を超える石灯籠が連なる光景は壮観で、秀就に殉死した7人の藩士の墓も残る。墓所は国指定史跡、本堂・庫裏・書院・鐘楼門・経蔵は国指定重要文化財。

東光寺・萩藩主毛利家墓所

東光寺・萩藩主毛利家墓所大照院と対になるように、歴代藩主の墓所が営まれたのが東光寺。萩藩3代藩主毛利吉就が元禄4年(1691)に創建した毛利家の菩提寺で、墓所には3代から11代までの奇数代藩主と夫人、一族の墓が並ぶ。約500基もの石灯籠が整然と連なる墓所は、毛利氏が長く萩を本拠とした歳月を感じさせる。国指定重要文化財の総門、三門、大雄宝殿、鐘楼は、中国風の意匠をもつ建築としても見どころ。大照院とあわせて巡れば、萩城を居城とした歴代藩主の足跡をより深くたどることができる。

萩城城下町

萩城三の丸から南東へ歩けば、城下町の歴史がそのまま現在の町へと続いている。江戸時代の町割りや道筋がよく残り、武家屋敷や商家、土塀などが点在。幕末には木戸孝允や高杉晋作ら、やがて明治維新を動かす人物たちがこの城下で育った。萩城だけを見て帰るのではなく、城下町まで歩いてこそ、毛利氏の城下から幕末維新へとつながっていく萩の歴史が見えてくる。

旧萩藩校明倫館(萩・明倫学舎)

萩城が藩政の中心なら、人を育てた場所が藩校明倫館だった。享保4年(1719)、5代藩主毛利吉元が家臣の子弟教育のため萩城三の丸に開き、嘉永2年(1849)に現在地へ移転。約5万㎡に及ぶ広大な敷地に、学問や武芸の施設が置かれた。吉田松陰や高杉晋作ら幕末の長州藩を担った人物とも関わりが深い。城を見るだけでは分からない、萩藩がどのように人材を育てたのかを知ることのできる場所。

木戸孝允旧宅

幕末の萩では、のちに時代を動かす人物たちが同じ城下で若き日を送っていた。桂小五郎の名で知られる木戸孝允もその一人。萩城下で藩医和田家の長男として生まれ、のちに桂家の養子となり、この旧宅で20歳頃まで暮らした。藩校明倫館では吉田松陰に兵学を学び、幕末には長州藩の指導者として活躍。坂本龍馬の仲介による薩長同盟の成立に尽力し、維新後は五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などに関わった。萩城下から明治維新へと続く歴史を実感できる史跡。

高杉晋作誕生地

天保10年(1839)、萩藩士高杉小忠太の長男として、この城下に生まれた高杉晋作。藩校明倫館に学ぶ一方、松下村塾にも通い、久坂玄瑞とともに「松門の双璧」と称された。文久2年(1862)には上海を視察し、翌文久3年(1863)には身分を問わず編成した奇兵隊を結成する。現在は旧宅の一部が公開され、産湯に使ったと伝わる井戸などが残る。城下町の一角に立つと、幕末を駆け抜けた晋作もまた、萩城の城下に育った一人の青年だったことが実感できる。

久坂玄瑞誕生地

天保11年(1840)、萩藩医の家に生まれた久坂玄瑞の誕生地跡。17歳で松下村塾に学び、高杉晋作とともに「松門の双璧」と称された。吉田松陰の妹・文と結婚し、幕末には長州藩の尊王攘夷運動を牽引。長井雅楽の航海遠略策に反対し、藩論が尊王攘夷へ向かうなかで大きな役割を担い、英国公使館焼き討ちや下関での外国船砲撃にも参加した。萩城下に生まれた若者たちが、やがて京都や江戸へ出て幕末の政局へ身を投じていく、その時代をたどる史跡のひとつ。

松陰神社・松下村塾

萩城から幕末維新の歴史をたどれば、やはり松下村塾は外せない。吉田松陰を祀る松陰神社の境内に、松下村塾と吉田松陰幽囚ノ旧宅が残る。安政4年(1857)に松陰が主宰した松下村塾は、身分や階級にとらわれず若者を受け入れた私塾。松陰が直接教えた期間は1年余りながら、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら、幕末から明治にかけて活躍する人物たちがここで学んだ。小さな建物から多くの人材が巣立っていったことに、萩という城下町の歴史のおもしろさが凝縮されている。

吉田松陰幽囚ノ旧宅

安政元年(1854)、伊豆下田で海外渡航を試みて失敗した吉田松陰は、江戸伝馬町の牢獄、萩の野山獄を経て、実家である杉家に預けられた。松陰はこの家で謹慎生活を送りながら読書と著述を続け、幽囚室で『孟子』などを講じるようになる。やがてその周囲に若者たちが集まり、教育の場は松下村塾へとつながっていった。幕末史で名高い松下村塾が突然生まれたのではなく、その前段階となった松陰の暮らしと教育を伝える場所。

伊藤博文旧宅

のちに初代内閣総理大臣となる伊藤博文も、若き日を萩で過ごした。安政元年(1854)から明治元年(1868)に兵庫県知事へ赴任するまで本拠としたのがこの旧宅。安政4年(1857)には松下村塾へ入り、吉田松陰に学んだ。木造茅葺き平屋建ての小さな家が残り、松下村塾からも近い。明治国家の中心へ進んでいく以前の伊藤が暮らした場所を訪ねることで、幕末の萩と明治という時代がひと続きだったことが見えてくる。

吉田松陰誕生地・墓所

萩の町を見渡す高台に、吉田松陰が生まれ育った杉家旧宅跡と墓所がある。墓所には松陰のほか、父杉百合之助、兄杉民治ら一族の墓が並ぶ。松陰の墓前には久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文ら門人たちが寄進した水盤や花立も残り、松陰と門人たちとの結びつきを今に伝えている。萩城跡や城下町、松下村塾を巡ったあとに訪ねれば、松陰たちが生きた萩という土地の広がりも感じられる。

萩城周辺グルメ・名物料理

萩を訪れたなら、日本海で水揚げされる新鮮な地魚と、城下町の風景にも溶け込む夏みかんを味わいたい。瀬つきあじやケンサキイカなど旬の魚介を楽しんだあとは、夏みかんを使った菓子やジュースなどで、萩ならではの味を楽しむのも旅の楽しみ。

萩城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:山口県萩市堀内1-1 [地図を見る]

県別一覧:[山口県の城]

電話:0838-25-1826(指月公園料金所)

開館情報

開園時間:4月〜10月 8:00〜18:30、11月〜2月 8:30〜16:30、3月 8:30〜18:00
休園日:無休
入園料:大人・大学生・高校生220円、中学生・小学生100円(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋との共通券)

アクセス

鉄道利用

JR山陰本線「東萩駅」下車、萩循環まぁーるバス(西回り)「萩城跡・指月公園入口・北門屋敷入口」降車、徒歩約5分。

マイカー利用

萩ICからだとどうなる?
中国自動車道「美祢東JCT」経由、小郡萩道路「絵堂IC」から約25分。指月第一駐車場(無料・51台)有り。

地図