松江城天守西面
松江城築城以前には国人領主、末次氏の末次城があったが、近世城郭として築いたのは、豊臣政権の中老を務めた堀尾吉晴である。1600(慶長5)年、子の忠氏が関ヶ原の戦いの功により、浜松から出雲・隠岐24万石に加増され、吉晴も一緒に入国している。当初は、尼子氏の居城であった月山富田城に入ったが、同城が中世山城であったため新しい城地を求めていたのだ。ところが、忠氏は急逝してしまう。家督を継いだのは、嫡男の三之介(後の忠晴)だが、祖父の吉晴も後見として幼少の新藩主を支えることとなった。

吉晴は、宍道湖にほど近い標高29mの亀田山(末次城趾)を、城地として定める。1607(慶長12)年から城造りと城下町の整備がはじまった。縄張りは、軍学者で「信長記」「太閤記」を著したことで知られる小瀬甫庵が手がけたという。2代藩主吉晴は男子に恵まれず、死後、堀尾氏は無嗣改易となる。

堀尾吉晴の銅像

1634(寛永11)年、京極忠高が入国したが3年で死去。末期養子が認められず、またしても改易となった(後に甥の高和が播磨龍野藩に6万石で大名復帰)。1638(寛永15)年、徳川家康の孫にあたる越前松平氏の直政が入封し、松平一族が幕末まで続いた。その中には、茶人・不昧(ふまい)として知られ、茶道の不昧(ふまい)流を起こした松平治郷(7代)も含まれる。

松江城天守の祈祷札の発見

明治維新後、1873(明治6)年に出された「廃城令」により、城の建物の多くは払い下げられたが、天守については、一度落札されるも旧藩士の高城権八、豪農であった勝部本右衛門栄忠などが奔走し買い戻された。1894(明治27)年、市民からの寄付を元に天守の大修理が行われている。1935(昭和10)年には、国宝保存法(当時)による国宝の指定を受けた。戦後の1950(昭和25)年から、天守や石垣の一部も解体する、5年におよぶ「昭和の大修理」が実施された。同年には、文化財保護法による重要文化財に指定されている。その直後から松江市や市民による国宝化を求める運きがはじまった。2007(平成19)年の松江開府400年祭をきっかけに機運がさらに高まり、本格的な学術調査もスタート。2012(平成24)年、行方が分からなくなっていた天守地階にあった二枚の祈祷札が発見され、松江城天守の完成が1611(慶長16年)であったことが確定した。これが決め手となり2015(平成27)年、65年ぶりに国宝に再指定された。その祈祷札のほか、鎮宅祈祷札4枚、鎮物(しずめもの)3点も同時指定されている。

(文:mario 写真:岡 泰行)

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