尼崎城の歴史
「尼崎」という地名は、岬があり尼さんがいたことに由来する。尼崎城は現在の阪神高速があるラインが海岸線で当時は海に面していた。大坂の役の時、建部政長、池田重利が守った旧尼崎城があったが、これに変わる新城を築くため、元和3年(1617)、幕府は膳所城から尼崎に入部した譜代大名の戸田氏鉄のものへ新城奉行を派遣し、元和4年(1618)の春から新尼崎城の築城が開始された。徳川大坂城の西の守りとなることが尼崎城の目的だ。大坂城からは12kmの距離があり、その支城としての位置付けとなる。尼崎城のエリアは広大で、西は庄下川、東は大物運河で甲子園球場の約3.4倍、旧尼崎城(大物城)の10倍の広さがあった。
余談ながらこの時期は、近畿において幕府の築城ラッシュで、元和元年に一国一城令、元和2年(1616)に淀城の修復、元和3年(1617)に尼崎城の築城、高槻城の修築、元和4年(1618)には新たに明石城の築城、姫路城の櫓修築、元和5年(1619)には、徳川大坂城の築城、江戸城の修築が発令されている。いずれも徳川または徳川譜代大名の城だ。
尼崎城は5万石の大名としては大きすぎる城だが、京都や大坂を中心に動いていた政治や経済を考えると、隣接する尼崎は家康にとって物流と西国大名を抑える拠点となる。大坂と西宮を結ぶ中国街道(現在の国道43号線)を城内に取り込むかたちとなった。また、江戸時代に天守を持つ兵庫県内の城は、姫路城と尼崎城の二城のみなので、尼崎城が幕府から重要視されていたのが頷ける。
本丸の東北隅に高さ18mの四層四階の天守を築き、多聞櫓を連結し複合式天守とした。戸田氏、青山氏、松平氏と代々譜代大名が藩主と務め明治維新を迎え、明治6年(1873)、廃城が決まり民間への払い下げや取り壊しが行われ、残っていた堀も埋め立てられ、石垣も護岸工事に使用され姿を消すこととなる。
- 明治6年:天守以外の建物、払い下げられる
- 明治8年:城地も払い下げられる
- 明治12年:天守台、櫓台などの石垣を尼崎港の防波堤の修築に使用
- 明治17年:本丸跡に城内小学校、開校
- 明治45年:同小学校拡張のため北側内濠埋め立て
- 大正末年:他の内濠、開発のために埋め立て
- 昭和34年:第二阪神国道開通により東大手橋と西大手橋付近に残っていた石垣除去
- 昭和42年:東の外濠の大物川埋め立て
水城の名城といわれた尼崎城の遺構を示す物は、弘化年間の図面や、古写真(加筆が多いため正確ではない)数枚のみで、これにより外観の推測ができる。これを元に尼崎にいた城郭画家、荻原一青画伯により史料にもとづいた復元図が描かれてゆく。
平成30年12月(2018)、ミドリ電化(現エディオン)創業者、安保詮氏が、尼崎城の天守を私産約10億円を投じて建設、尼崎市に寄贈した。「尼崎城分間絵図」(尼崎市指定文化財)などが元にされている。平成31年3月(2019)に、再建天守の一般公開が始まった。平成最後の築城となった。天守台は香川県小豆島の花崗岩を新たに使って築かれている。
(文・写真=岡 泰行)
参考文献:『尼崎市史 第2巻』(尼崎市役所)