写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
兵庫城の歴史と見どころ
摂津の海辺に築かれた兵庫城は、戦国から近代へと至る激動の時代を静かに物語る存在といえる。天正9年(1581)、池田恒興によって築かれ、豊臣政権の外交拠点として朝鮮通信使を迎える役割も果たした。その後は尼崎藩の陣屋、さらには明治初期の兵庫県庁舎としても利用され、役割を変えながら都市の中枢を担った。現在、城そのものの遺構は残されていないが、復元された陣屋や周辺の史跡に往時の面影をとどめている。かつて西国街道と海運が交差したこの地に立てば、歴史の記憶とともに、水辺に揺れる静かな風景に心を澄ませるひとときが訪れる。
兵庫城の歴史
兵庫城は、天正8年(1580)、織田信長の家臣であった池田恒興によって築かれた。場所は、摂津国兵庫津、すなわち現在の神戸市兵庫区中之島町である。築城にあたっては、前年に攻略した花隈城の石材が用いられたと、第62次発掘調査報告書に記されている。築地跡からは、当時の石垣の基底部とともに、木材を胴木として活用した特殊な基礎構造も発見されており、戦国末期における最新の築城技術が導入されていたことがうかがえる。
池田恒興は天正11年(1583)に美濃大垣城へ転封となり、その後、兵庫城は豊臣秀吉の直轄領となった。代官として入ったのは片桐且元、またはその弟である片桐貞隆とされ、片桐家による統治は江戸初期まで続いた。兵庫津は古来より海上交通の要衝であり、城は軍事的な拠点にとどまらず、港の管理や外交においても重要な役割を担っていた。
慶長12年(1607)、初の朝鮮通信使が来航した際には、兵庫津にてその接遇が行われている。この時期、兵庫城は堀を備えた陣屋として整備されており、通信使の応対にふさわしい施設として使用された記録が残る。その後も通信使は江戸時代を通じて計12回訪日し、そのうち11回が兵庫津への寄港であった。
江戸時代に入ると、兵庫城は城郭としての機能を次第に縮小し、やがて尼崎藩(尼崎城)の支配下に組み込まれた。明和6年(1769)、幕府による上知により兵庫津は天領となり、旧兵庫城の敷地は兵庫勤番所として再利用される。この時、かつての堀は一部が埋め立てられ、町屋や奉行所の施設に姿を変えていった。
明治維新後、旧勤番所跡地は一時的に兵庫県の県庁舎として用いられた。明治元年(1868)には伊藤博文が兵庫県知事を務め、ここが近代行政の出発点のひとつとなった。その後、地域開発や新川運河の開削に伴い、城跡は都市のなかに取り込まれ、遺構は姿を消していく。
しかし平成以降の発掘調査によって、かつての城郭構造が次第に明らかとなり、令和3年(2021)には「兵庫津ミュージアム 初代県庁館」が開館し、旧陣屋が忠実に復元された。さらに翌年には「ひょうごはじまり館」が開館し、兵庫城の歴史をふたたび知る機会が整えられている。
- 『兵庫津遺跡 第62次発掘調査報告書』 資料種別(2014神戸市教育委員会)
- 兵庫津ミュージアムWebサイト「初代県庁館・ひょうごはじまり館」
兵庫城の特徴と構造
第62次発掘調査報告書によると、築城当時の石垣や内外堀の構造が確認されており、堀は最大幅約14.4m(8間)、平均幅約10.8m(6間)だったと記されている。また、胴木と呼ばれる基盤木材上に石組遺構が構築され、その後町屋や水路へと変遷した段階も克明に記録されている点が注目される。江戸期には勤番所化に合わせて堀の幅が減少し、町屋地へと敷地が転用されたことも同報告書に基づく記述がある。
現在は、運河沿いに隣接してイオンモールが城跡に建設されている。ミュージアムにて「初代県庁館」などとともに城域や構造の歴史を学べる展示が整備されている。
現地で訪ねる石垣の場所
兵庫城は、「兵庫運河」と「イオンモール神戸南」の地中にある。そのため、往時の姿は、その城域から偲ぶしかないが、中央市場前駅付近では次の3箇所を訪れると良い。いずれも説明板が設置されていて理解を深めることができる。
地下鉄中央市場前駅1番出口すぐの石垣、3番出口すぐの石垣、兵庫城跡石碑の3箇所だ。前者はいずれも発掘調査中に出土した兵庫城の石垣に使用されていた可能性のある石材を利用して造られた。新たに組まれたものだが発掘現場を見たことのある人にとってはその石材だと思うと感慨深い。また、現地とは別に、イオンモール建設時に出土した兵庫城石垣が神戸市埋蔵文化財センターに移設されている(後述)。
兵庫城跡石碑には、「最初の兵庫県庁の地」と書かれている。これは幕末に機能した兵庫津奉行所が勤番所となり、兵庫県庁となった。そういった具合に城が変化した。兵庫津は古くからの国際港。兵庫県の初代県知事は伊藤博文で神戸港や兵庫津などその管理にも尽力したらしい。
2021年11月3日、文化の日に「初代県庁館」がオープンした。幕末維新期の県庁(旧大坂町奉行所兵庫勤番所)を復元したもので、伊藤博文がいたころの県庁を絵図などから復元。仮牢や取次役所などがありその役目が分かる。住所は神戸市兵庫区中之島2丁目1-17(上記Googleマップ参照)。入館無料。月曜・年末年始休館。
神戸市埋蔵文化財センターに移築石垣
兵庫城本丸北東部、城内側の再下段の石垣が、一部、神戸市埋蔵文化財センターに移築保存されている。その石垣には、柱座がついた礎石と一石五輪塔も見ることができる。また、同館2階には、兵庫城の転用石(約32個)を集めた展示がある。墓や供養塔、一石五輪塔や五輪塔の一部、建物の礎石、石仏など。
神戸市埋蔵文化財センターは、兵庫城跡からは少し距離があり、鉄道利用は西神中央まで約1時間、自動車利用は約30分(22km)。開館時間は10時〜17時(入館16:30まで)、入館無料。月曜(月曜が休日の場合はその翌日)・年末年始休館。
兵庫城の学びに役立つ本と資料
兵庫城の発掘は期間にすると4年と長いが、2012年と2014年〜と主に2回に分けて、発掘調査報告書が神戸市教育委員会から刊行されている。兵庫城のほか、町屋などの発掘も含む兵庫津遺跡の報告書。神戸市埋蔵文化財センターで販売されている。
- 『兵庫津遺跡 第57次 発掘調査報告書』(2014年 神戸市教育委員会)
- 『兵庫津遺跡 第62次 発掘調査報告書』(2017年 神戸市教育委員会)
兵庫城の撮影スポット
復元された初代県庁の長屋門は南向きだ。
兵庫城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る兵庫城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。兵庫城周辺の史跡を訪ねて
兵庫城の跡地を歩いたあと、少し足を延ばすだけで、さまざまな時代の歴史を感じさせる史跡に出会える。石垣に残された城普請の痕跡、平安期の武将を偲ぶ供養塔、そして海防を見据えた近代の砲台跡などが、静かにこの地の重層的な歴史を物語っている。
徳川大坂城石丁場の境界石
なぜか全くといっていいほど知られていないが、イオンモールの西隣りに「阿弥陀寺」がある。その境内に「加藤肥後守石場これより南ひがし」という文字が刻印された徳川大阪城築城時に石丁場で使われていたと思われる巨大な境界石がある。大阪城(徳川大坂城)の大手口多聞櫓、千貫櫓の石垣を普請した加藤忠広のものだ。そのほか同寺院には楠公供養石なるものもある。京阪神に残る明確な文字が書かれた石丁場の境界石では、尼崎城の本丸跡に残る境界石とここの2つのみ。
平清盛関連の史跡
戦国時代から遡る平安時代、平清盛関連の史跡が点在している。「清盛塚」は、十三重の石塔で弘安9年(1286)に建てられた供養塔。すぐ隣りには平清盛の銅像がある。また、清盛橋の欄干には源平合戦のレリーフがあり、平清盛が後白河法皇を幽閉した地、薬仙寺に「萱の御所跡」や「後醍醐天皇薬水」がある。さらに北へ足を運べば福原京関連の史跡もある。
付近の城
花隈城(石垣風外観の駐車場の上部に石碑)と、勝海舟が設計した和田岬砲台(三菱重工内・見学要申込み・平日のみ)。
兵庫城周辺のおすすめ名物料理
清盛塚すぐ近くの「三田牛飛苑」、またはイオンモール、神戸市中央卸売市場本場あたりでどうぞ。
兵庫城のアクセス・所在地
所在地
住所:兵庫県神戸市兵庫区切戸町5 [MAP] 県別一覧[兵庫県]
電話:078‑651‑1868(兵庫県立兵庫津ミュージアム)
アクセス
鉄道利用
神戸市営地下鉄海岸線、中央市場駅下車、徒歩すぐ。1番出口から徒歩1分で石垣、城跡碑まで徒歩5分。
マイカー利用
阪神高速3号神戸線、柳原ICから、約4分(1.1km)。「イオンモール神戸南」の駐車場を目指す。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
兵庫城に寄せて
これまでに届いた声:全1件

兵庫城は、信長の命によって池田恒興が築城しました。荒木村重の花隈城の資材を使用されています。江戸時代には兵庫奉行所が置かれ、明治に入り初代兵庫県庁が置かれました。西国街道から兵庫に入る入口「柳原惣門」にあって堀と堤に囲まれた大規模な「福海寺境内」は枡形を構成して兵庫城の防備をしました。
( 大黒天福海寺)さんより