出石城は、戦国期の有子山城から山麓へ城の中心を移し、小出吉英が近世城郭として整備した城。背後に有子山を抱き、段状に築かれた本丸や二の丸、稲荷曲輪の石垣、大手門跡に建つ辰鼓楼が印象的な景観をつくる。このページでは出石城の歴史や見どころ、アクセス、周辺歴史スポット、撮影スポットを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
出石城の歴史・見どころ
出石城の歴史
山上の城から山麓の城へ。出石城(いずしじょう)の歴史をたどると、戦国の山城から近世の城郭へと移り変わっていく但馬の城の姿が見えてくる。
出石盆地を見下ろす有子山には、天正2年(1574)、山名祐豊が有子山城を築いた。天正8年(1580)、羽柴秀長による第二次但馬攻めで有子山城が落城すると山名氏は滅び、その後は秀長、青木勘兵衛、前野長康らの支配を経て、文禄4年(1595)に小出吉政が播磨龍野城から移封された。
出石の城が大きく姿を変えるのは慶長9年(1604)のこと。吉政が和泉岸和田城へ移ると、嫡男の小出吉英が出石領を継いだ。この頃、山頂の有子山城は廃され、その山麓にあった居館部を大きく改修して出石城が築かれたとされる。吉英は城郭だけでなく城下町の整備も進め、出石城は近世城郭としての姿を整えていった。
大坂の役後の元和5年(1619)、吉英は再び出石に入り、以後も小出氏による支配が続いた。しかし元禄9年(1696)、幼少の小出英及が没して小出本家が断絶。翌元禄10年(1697)には武蔵岩槻から松平忠周が入封した。松平氏の時代には三の丸に御殿が設けられ、以後、三の丸御殿が城主の居所となった。本丸・二の丸には番士が当直したとされる。
宝永3年(1706)、松平氏と入れ替わって信濃上田から仙石政明が五万八千石で入封した。以後、仙石氏が幕末まで出石藩を治める。天保6年(1835)には藩政改革をめぐる家中の対立から仙石騒動が起こり、幕府の裁定によって出石藩は三万石へ減知された。
幕末には本丸・二の丸の建物の破損も進み、明治元年(1868)には城の撤去が進められ、同年10月までに建物はすべて取り壊された。現在の出石城に残る石垣や曲輪は、山麓に築かれた近世城郭の姿を今に伝えている。
出石城の特徴と構造
出石城は標高321.5mの有子山北麓に築かれ、山頂の有子山城と山麓部が一体となった城郭のうち、近世に本城として整備された山麓部にあたる。城下からは出石盆地を望み、東の京街道をはじめ各方面へ延びる街道と結ばれていた。
縄張りは最高所に稲荷曲輪を置き、その下に本丸、二の丸、下の曲輪、三の丸を段状に配置し、二の丸の東に山里丸、西に西の曲輪を配する。石垣は稲荷曲輪が高さ12.8m、本丸と二の丸が5.1m、下の曲輪が6.7mに達する。本丸は山麓の斜面を利用したため面積が限られ、二の丸と階段状の渡り廊下で結ばれ、両曲輪を合わせて城の中枢機能を担っていた。
三の丸の周囲には内堀がコの字状に巡り、正面に大手門、左右に東門と西門が置かれていた。主要部には石垣を用いる一方、内堀沿いの大部分は土塁で構成された。さらに城下には中堀と外堀が巡り、中堀の内側に町人町、外堀の内側に侍町を配置していた。街道口や城下の要所には寺院が置かれ、城郭だけでなく城下町を含めて防御する構造を備えていた。






辰鼓楼
大手前通りにひときわ目をひく時計台がある。辰鼓楼(しんころう)という。出石を代表する景観だが、出石城の城としての建築物ではない。その台座である石垣は大手水堀に面し高さ約5m、出石城大手門跡の櫓台を基礎としている。

辰鼓楼は廃藩置県の前に出石藩と現地の有力者によって建てられたもので、建材には出石城の廃材を利用したという。当初は太鼓で時刻を知らせる時報台で、のちに大時計が設置されて時計台となった。令和3年(2021)6月、NPO法人但馬國出石観光協会による調査結果が発表され、時計が動き始めたのは明治14年(1881)9月8日だったことが判明した。札幌市時計台より27日遅く、日本最古の時計台ではないことも明らかになった。
出石城下に残る建築
城下の要所には多くの寺院が配置され、軍事施設として利用された可能性も指摘されている。現在も経王寺や見性寺には、櫓を思わせる二階建ての鐘楼が残る。

出石家老屋敷(内町通り)

経王寺・藩主松平家の菩提寺・望楼形鐘楼

見性寺・望楼形鐘楼

出石城下の足軽長屋
出石城の整備状況
出石城の建築物は明治元年(1868)の城郭撤去によって失われ、現在は石垣や曲輪などが残る。
現在城内で目にできる櫓や門などの建築物は再建されたものだ。なかでも本丸隅櫓は旧建物を忠実に復原したものではなく、昭和43年(1968)に建てられた復興櫓。再建時には、瓦に名前を書いて1,000円を寄付する取り組みなどによって、当時の総工費2,300万円のすべてを町民から集めたという。平成6年(1994)には城前の登城橋と登城門も復興され、1億円の整備費のうち半分を町民の寄付でまかなったとされる。
現在は再建された隅櫓、登城橋、登城門とともに、本丸、二の丸、稲荷曲輪などの曲輪や石垣、三の丸北側に残る内堀と土手の一部を見ることができる。
参考文献:
- 『ひょうごの城紀行』(神戸新聞総合出版センター)
- 『探訪ブックス 日本の城6 山陰の城』(小学館)
- 『日本城郭大系12』(新人物往来社)
- 「歴史探訪」(NPO法人但馬國出石観光協会)
- 「民間にできないことをやる!町民参加のまちづくり」(中心市街地活性化協議会支援センター)
出石城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
出石の観光案内所では、「此隅山城」「有子山城」「出石城」の縄張図を掲載したパンフレットが配布されている。出石城だけでなく、山名氏の本拠が此隅山城から有子山城へ、さらに山麓の出石城へと移っていく過程を知るうえでも役立つ。
書籍では、神戸新聞総合出版センター発行の『ひょうごの城紀行』がおすすめ。有子山城と出石城の関係や、出石城の縄張り、石垣、城下町の構造などが詳しく掲載されている。兵庫県内の書店で見かけることも多い。
出石城の撮影スポット・絶景ポイント
出石城は北向きに開き、背後に有子山が迫るため、城内は山の影響を受けて直射光が入りにくく、比較的やわらかな光がまわる。個人的には、昼間に有子山城へ登り、下山してから午後から夕方にかけて出石城を撮影するコースがおすすめ。
狙いたいのは、西の丸有料駐車場から望む本丸西隅櫓。夕方、西からの光が櫓と石垣に当たる時間帯には、有子山の木々を背景に西隅櫓と石垣が浮かび上がる。有子山を取り込んで縦アングルで撮影すれば、山城を背後に抱えた山麓の城という出石城の特徴も一枚の写真に表現できる。
また、辰鼓楼は出石を代表する撮影スポットだが、大手前通りに面しているため人通りが多い。人をできるだけ入れずに撮影するなら、早朝など人通りの少ない時間帯を狙いたい。平日の夕方に訪れた際には人も少なく、落ち着いて撮影することができた。周囲には桜の木があり、春には桜と辰鼓楼を組み合わせた景色も楽しめる。
出石城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、出石城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
出石城周辺の観光スポット・史跡めぐり
出石城下町を歩く
「但馬の小京都」と呼ばれる出石。出石城を訪れたら、城下町にも足を延ばしたい。城下町の中心部は平成19年(2007)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、江戸時代から続く街路や町割りを今に伝えている。碁盤の目状に道が延びる町には、歴史ある建物や史跡が点在し、歩いて巡ることができる。
出石史料館は、かつて生糸を商った豪商の町家を利用した資料館。吹き抜けを設けた建物そのものも見どころで、館内には豊臣秀吉や徳川家康の書状、武具など出石藩ゆかりの資料が展示されている。
明治期に開館した芝居小屋の出石永楽館も訪れておきたい。現在も芝居小屋として使われる建物で、映画「国宝」のロケ地にもなった。舞台だけでなく、舞台床下の奈落など芝居小屋ならではの構造を見ることができる。
幕末の史跡では、桂小五郎(木戸孝允)が潜居した地を示す石碑が残る。また、かつて出石川の船着場にあった「おりゅう灯籠」は、水運とともに栄えた城下町の面影を伝える。少し足を延ばせば、沢庵和尚ゆかりの宗鏡寺があり、山名氏、小出氏、仙石氏ゆかりの墓所も残る。

桂小五郎居住跡(出石)

出石史料館(町屋)

おりゅう灯籠(船着場灯籠)
背後の山城、有子山城
出石城の背後にそびえる有子山には、有子山城跡が残る。出石城とあわせて訪れておきたい山城だ。登城口は出石城稲荷曲輪の東側にあり、ここから尾根伝いに山頂を目指す。山頂には壮大な石垣が残り、眼下には出石城下を一望する眺望が広がる。
出石城周辺グルメ・名物料理
出石は関西屈指のそば処
出石の名物といえば「出石そば」。出石焼の小皿にそばを盛る「皿そば」で、1人前は5皿ほど。江戸中期、信州上田城から出石へ移封された仙石氏とともに、信州のそば文化が伝わったとされる。
城下町には数多くのそば店が軒を連ね、店ごとの味を楽しめるのも出石ならでは。訪れるたびに違う店を巡ってみるのも面白い。個人的によく訪ねるのが「出石手打皿そば登城」。テラス席からは水堀越しに辰鼓楼を眺めることができ、通常とは少し違った角度から写真を撮れるのも魅力だ。また、戦国好きとして気になったのが、その名も「官兵衛」という店。実際に訪ねてみると、黒田官兵衛の末裔の方が営んでいるという。
出石城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:兵庫県豊岡市出石町内町 [地図を見る]
県別一覧:[兵庫県の城]
TEL:0796-52-3111(出石振興局地域振興課)
アクセス
鉄道利用
JR山陰本線、豊岡駅下車、出石行きバス30分終点「出石」降車、徒歩5分。
マイカー利用
北近畿豊岡自動車道、八鹿氷ノ山ICから約30分(16.6km)、県道9号、県道6号、国道312号、県道2号を北上する。 大阪方面からは舞鶴若狭自動車道、福知山ICから約1時間(47.2km)、国道9号線、国道426号線利用で北上する。 有料駐車場は「大手前有料駐車場」「庁舎南有料駐車場」「西の丸有料駐車場」の3カ所でいずれも城から近い。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
出石城:城ファンの知見と記録
出石城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全5件)。







辰鼓楼には、オランダ製の機械式大時計が設置されていたそうな。現在は入れ替えられているのだとか。
記録:忠恕 2021
出石城の山里曲輪の石垣整備工事が、平成29年3月25日まで(予定)行われている。出石城の顔である東隅櫓と西隅櫓付近は、工事エリアではないため、訪城には特に支障はない。
記録:shirofan 2016
本丸跡には木造復興の櫓が二基。石垣は本丸より上にある稲荷曲輪のものが最も高い。背後の山城は、山名氏時代の有子山城。この山腹に、麓の出石城を囲うように竪堀が2本めぐらされている。今は埋め立てられて無いが、内堀はこの竪堀につながっていたそうです。
記録:半兵衛 2001
京都にも近いせいか、城下町の町屋は、朱塗りの壁や格子が目立ちます。明治9年の大火で町の2/3に焼失したせいか、古い町並みと新しい家々が同居。観光案内のパンフレット表紙にある、「久屋」のお宅では、城内で使われていた当時の時計などがあるとか。
記録:半兵衛 2001
出石城は慶長九年(一六○四年)に小出吉英によって山頂の城を廃して築かれたもので一国一城制による但馬唯一のお城です。平山城に分類され梯郭式といわれるように有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸と梯子を立てかけたように城を築いています。また東には山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周囲には山から掘り切りで水を引き内堀をめぐらせ、北に大手門、東西にもそれぞれ東門、西門を設け天守閣は築きませんでしたが隅やぐらや多門を設けて要害としました。城主は小出氏が九代(百年)松平氏一代(六年)仙石氏七代(百六十年余)と続き明治の版籍奉還まで二百七十年間五万八千石の本城としてまた但馬第一の雄藩としてその威容を誇りました。最上段の稲荷郭には城の鎮守として稲荷神社を祠り本丸、二の丸には宏壮な御殿を建てて渡り廊で連続させていました。また本丸には仙石氏の藩祖仙石権兵衛秀久を祠る感応殿や昭和四十三年に復元した東西隅やぐらがあり往時の面影を偲ばせてくれます(出石町観光協会 現地案内板より)。
記録:吉田 豊太郎 1999