京都新城の歴史・見どころ

京都新城の歴史

京都新城は、豊臣秀吉が最晩年の慶長2年(1597)、内裏の南東部に築いた居館・城郭。聚楽第を破却してから約2年後、秀吉は再び京都に大規模な拠点を築いた。

造営は同年正月に始まり、当初は三条通万里小路を中心とする4町四方、計16町域が敷地とされた。しかし、わずか3か月後には狭いとして計画を変更。北は土御門通から南へ6町、東は京極から西へ3町までの計18町域へ場所を移し、同年9月21日に竣工した。面積は当初計画の約1.13倍となり、正方形から南北に長い敷地へと姿を変えた。東西約400m、南北約800m、約32万㎡に及ぶ広大な城域は、聚楽第にも匹敵する規模だった。

当時の史料には「太閤御屋敷」「太閤御座所」「新屋敷」のほか、「新城太閤御所」「京之城」「京都城」など、屋敷と城の双方を思わせる名称が残る。内部には「寝殿」があり、史料には「ワカゼカ池」「ハコ瀬カ池」と記された池も登場する。両者は同じ池を指すと考えられ、現在の京都仙洞御所にある阿古瀬淵がその名残とみられている。

秀吉が没した翌年の慶長4年(1599)からは、高台院の屋敷となった。絵図の検証から、その範囲は京都新城の北半部へ縮小されていたことが分かる。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に際して南面御門、内塀、石垣などが壊されたものの、高台院屋敷には「城ノ矢倉」「石垣」「内塀」と記された城郭施設が残っていた。

高台院はその後、慶長10年(1605)に伏見城の化粧御殿と庭園を東山へ移し、そこへ移り住んだ。翌慶長11年(1606)には秀吉の菩提を弔う高台寺を建立し、寛永元年(1624)に没するまで東山で過ごした。

京都新城跡では、寛永4年(1627)に後水尾院・東福門院御所が造営された。発掘調査では、この造営に伴って石垣の上半部が崩され、堀も埋め立てられたことが判明している。その後、この地は現在の京都仙洞御所・京都大宮御所へと受け継がれた。

京都新城は長く遺構が見つからず、その姿は史料の中にしかなかった。ところが令和元年度の発掘調査で石垣と堀が初めて確認され、金箔瓦も出土。秀吉が最晩年の京都に築いた城の姿が、400年以上を経て具体的に捉えられるようになった。

京都新城の特徴と構造

京都新城は内裏の南東部、現在の京都大宮御所・京都仙洞御所を含む一帯に築かれた。秀吉期の城域は東西約400m、南北約800m、約32万㎡。現在の京都大宮御所・京都仙洞御所はその北半部にあたり、絵図との比較から、この付近に京都新城の中核部があったと考えられている。

令和元年(2019)から令和2年(2020)にかけての発掘調査では、中枢部の北西部にあたる場所から、堀に沿って南北約8mに延びる石垣を確認した。自然石を用いた野面積みで、上部は失われているものの、本来は高さ約2.4mあったと考えられている。石垣の背後には裏込めを施し、さらに土と礫を重ねて地盤を築くなど、丁寧な造成も確認された。

石垣の東側には堀が延び、令和4年(2022)8月の工事立会調査で反対側の石垣も確認されたことから、堀幅は15m未満と判明した。堀からは桐文・菊文・巴文などの金箔瓦も出土している。現在、石垣や堀を地表から見ることはできないが、発掘によって、京都新城が石垣と堀を備えた城郭だったことが初めて具体的に明らかになった。

京都新城跡・京都仙洞御所 清所門
京都新城跡に建つ京都仙洞御所の清所門。現在、京都新城の遺構は地表では見ることができず、城跡の一部は御所の敷地となっている。
阿古瀬淵・京都新城の庭園遺構
京都仙洞御所内に残る阿古瀬淵。京都新城に設けられた池の名残と考えられ、秀吉時代の庭園遺構を伝える。
京都新城の金箔瓦
京都新城跡から出土した金箔瓦。京都市考古資料館に収蔵されており、今後の企画展などで目にできるかもしれない。
飛雲閣
西本願寺にある国宝・飛雲閣。古くから聚楽第の遺構と伝わる一方、近年は京都新城から移築された建物とする説もある。

なお、西本願寺の国宝・飛雲閣は、古くから聚楽第の遺構と伝えられてきた。近年、付属する黄鶴台から寛永5年(1628)から寛永6年(1629)にかけての墨書が確認され、飛雲閣の移築時期に関わる可能性が指摘されている。寛永4年(1627)に始まった仙洞御所造営との年代的な近さなどから、京都新城から移築された建物とする説もある。

京都新城の整備状況

令和元年(2019)11月から令和2年(2020)3月、京都仙洞御所の消火設備整備ほか工事に伴って約125㎡を発掘調査し、京都新城の石垣と堀を初めて確認した。さらに令和4年(2022)には南東約50mの地点で堀東肩部の石垣が見つかり、堀幅が15m未満と判明した。発見された遺構を保存するため消火設備の建設場所は変更され、石垣と堀は保存されることとなった。発掘後は埋め戻され、一般公開は行われていない。

参考文献:

  • 「京都新城の発見―京都仙洞御所消火設備整備ほか工事に伴う発掘調査―」(公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 南孝雄、『宮内庁京都事務所年報』4号2023年)
  • 「秀吉の『幻の城』発見 御所から石垣、金箔瓦」(日本経済新聞)
  • 「豊臣秀吉の幻の城 京都新城発見」(立命館大学新聞社)
  • 「秀吉の秘策 最後の城・京都新城」(NHKスペシャル「秀吉と京都の秘密~最新探査 豊臣家の興亡~」)

京都新城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

『天下人の城【改版】』

京都市文化財ブックス第31集(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課)に発掘成果とともに紹介されている。A4カラー114P、2,000円(税込)。京都駅ビル2階の京都総合観光案内所で販売されている。

京都新城の撮影スポット・絶景ポイント

京都新城は石垣や堀などの遺構が地表に残っていないため、遺構そのものを撮影することはできない。撮影の中心となるのは、城跡の一部にあたる現在の京都仙洞御所。門や塀は西向きのため、外観を撮るなら午後の方が光が回りやすい。

仙洞御所内には、京都新城にあった池の名残と考えられている阿古瀬淵がある。御所内を撮影するなら、宮内庁の参観を利用したい。事前申込みによる参観が可能だ。

京都新城周辺の観光スポット・史跡めぐり

京都御所

蛤御門・京都御所南北朝時代から明治まで歴代天皇の御所となった場所で、京都新城はその南東に隣接するように築かれた。幕末には御所をめぐって政局が大きく動き、元治元年(1864)の禁門の変では御苑一帯が戦場となった。西側の蛤御門は激戦地の一つで、現在も門に当時の弾痕が残る。

花の御所跡

花の御所跡・室町殿の石敷遺構永和4年(1378)、室町幕府3代将軍・足利義満が今出川室町に造営した室町殿の跡。庭に多くの花木が植えられたことから「花の御所」と呼ばれ、室町幕府の政治拠点となった。現在は市街地となっているが、同志社大学寒梅館には発掘調査で確認された室町殿の石敷遺構が保存され、大聖寺には「花の御所」の石碑が立つ。見学自由。

足利将軍室町第跡

足利将軍室町第跡今出川通と室町通の交差点北東に、「従是東北 足利将軍室町第址」と刻まれた石標が立つ。室町殿は南を今出川通、西を室町通、北を上立売通、東を烏丸通とする東西1町、南北2町の範囲に築かれ、足利将軍家の居館であるとともに幕府政治の中心となった。

旧二条城跡

旧二条城跡石碑永禄12年(1569)、織田信長が室町幕府15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城。地下鉄烏丸線建設に伴う発掘調査では、石垣を伴う堀跡が確認され、石垣には石仏や五輪塔などの石造物が転用されていた。京都新城に先立つ、戦国時代の京都に築かれた城郭の姿を知ることができる。

京都新城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:京都府京都市上京区東桜町55 [地図を見る]

県別一覧:[京都府の城]

電話:075-211-1215(宮内庁京都事務所参観係)

アクセス

鉄道利用

京都市営地下鉄烏丸線「丸太町駅」下車、徒歩約15分。

マイカー利用

名神高速道路、京都南ICから、北へ26分(9.1km)、京都御苑の清和院駐車場(有料・81台)を利用。

地図