大阪城

大手門とは

大阪城の大手門は、城の正面玄関である。大阪城の南西あり約80mの大手土橋から二の丸へ入る最初に潜る城門が大手門(おおてもん)で、門を潜ると大手枡形が形成されている。枡形内は続櫓渡櫓(多聞櫓)で囲われ、左に曲がると大門がある。昭和28年(1953)、両側の土塀(大手門北方塀・大手門南方塀)とともに国の重要文化財に指定されている。多聞櫓など現存する枡形虎口の規模では大阪城に残る大手虎口が最大級となる。
大阪城大手門

大手門の歴史

大坂城大手枡形の土木工事は、元和6年(1620)に着工し、元和8年(1622)に再び規模を広げ再築されている。枡形南側の石垣は、南外堀二の丸の形式と同じなことから枡形全体の完成は寛永6年(1629)とみられている。昭和41年(1966)の保存修理まで大手口多聞櫓と同じく幕末の寛永年間と同時期に再建されたものと思われてきたが、江戸初期のものであることが解った。

大手門は昭和41年(1966)の保存修理時には全解体された。墨書は二種類の筆跡(書体)があり、「北かわ上貫」など合わせ符号が鏡柱などに書かれていたものと、「冠木御門屋根」といった屋根素材に用いられたものがあった。前者が千貫櫓乾櫓のものと材質も合わせ酷似していることから、幕末に、創建時の門の冠木より上の屋根形状を変更し補修していたことが判明した。この時、瓦も全材新調している。その後、明治期には筋交貫が挿入されている。

門扉は創建時のものだ。大手門の鉄板貼りの中で、それまで旧陸軍の手によって補修されてきた箇所があり、昭和の保存修理時には、これを撤去し火造で叩き延ばした鋼鉄既製鉄板を短冊のかたちにして貼り、補修を行っている。

大阪城大手門城内側

大正12年(1923)には、本柱と控柱に石造の礎盤を挿入し根継をしている。終戦間際の昭和20年(1945)8月10日の大阪空襲で被害を受けるが、昭和28年に大阪市教育委員会が中心となり「大阪城修復委員会」が発足。北方土塀は土台のみ残し、屋根、壁全面を新材で補修した。この時、古材は多聞櫓西端室の地下に保管された。大手口はこの応急処置を受けたままの姿で時が過ぎ、その後、昭和20年の枕崎台風、昭和25年のジェーン台風などで被害を受け、崩壊寸前となった。昭和41年6月1日から翌年3月31日まで、大手門と同南方土塀、同北方土塀の保存修理工事が行われ、できるだけ創建時または幕末の姿へと修築が行われ現在の姿となっている。

大手門の特徴と構造

大阪城の大手門の特徴を解説する。大手門は一間一戸の潜戸付の高麗門で、門内は雨落ちまで石畳が敷かれている。屋根は切妻造の本瓦葺だ。内側には高さは約3mの武者隠の石垣が備え付けられている。

大阪城大手門の桃瓦
大手門の切妻屋根に見られる桃瓦。桃瓦は魔除け瓦で大手門には8個、設置されている。

大阪城大手門の石畳
大手門の石畳。エレクトリックカーが運行されてからはシートが敷かれ石畳は見られない。この敷石は、渡櫓の大門の修理前の姿では、ばらばらの敷石が敷き詰められていたそうだが、大手門の敷石は本来どういった姿であったかは、工事報告書に記載が無かったため分からない。ただ、門前には大手土橋の雁木坂から登る石階段があったことは確かだ(現在は大手土橋の道路下に埋められている)。

大阪城大手門の潜戸
潜戸は横1.1m x 縦1.2mで腰をかがめて潜るもので刀を差したままでは通行できないサイズ。

大阪城大手門に見られる金具
大手門に見られる金具。開けた扉を止めておく用途かと思われるがいつの時代のものかは分からない。

大手門の控柱

門の柱というものは、雨を受けて下から腐る。そのため、柱の下部を新しい材で継ぐメンテナンス(根継)が定期的に行われる。大坂城の大手門も柱継がなされており、中でも控柱の柱継は北側と南側の両方でなされ、その形跡が見られる。

大坂城大手門の継手(北側)
大坂城大手門の継手(北側)

大坂城大手門の継手(南側)
大坂城大手門の継手(南側)

控柱の高さは約5.7mあり、そのうち、北側の控柱の幅は約40cm、礎石から約130cmの高さで継がれている。南側の控柱も幅40cmでこちらは約54cmの高さで継がれている。保存修理時には、その断面から「大正拾弐年六月二十四日、扣柱根本改修工事、部員陸軍主計正少田豊、設計者陸軍技手和田熊吉、請負人石濱組、施工者藤井仁平…」の墨書きがあり、控柱の補修年代が確定している。大手門の柱継は、「謎の柱継」としてどういう仕組みで材を繋いでいるのか、謎とされていた。未だに一部の案内等では謎とされているが、その謎は、昭和58年(1983)にX線による撮影でその内部の構造が明らかになっている。先の墨書きの請負人の石濱組は、現在も営まれており、その末裔とも言うべき天王寺区にある田中建設株式会社で柱継のことが紹介されている。

大手門南方塀

大手門左右の続き土塀は、大手門向かって右側を「大手門南方塀(おおてもんなんぽうべい)」左側を「大手門北方塀(おおてもんほっぽうべい)」と言う。下写真は南方塀。

大坂城大手門南方塀
大手門南方塀は、南に伸び直角に折れて東側で続櫓に接している。矩折延長60m。石垣はその約1/3は大手の雁木坂に巨石を用い、残り2/3は南外堀に面し高石垣となっている。写真右手の石垣は大手門の武者隠で高さは約3mある。笠石の上に乗る土塀の土台の木材は北方塀に比べると新しい木材で外側は漆喰で塗り込められている。雁木上に幅半間の犬走を設けている。鉄砲狭間は、笠石銃眼7門と土塀には4門。南方土塀は昭和41年(1966)の保存修理時に屋根と控柱が解体修理を受け、控柱は一間ごとを三間ごとに変更し、北方塀の控柱を倣して石造りで新たに設置されている。大手門南方塀は国の重要文化財に指定されている。

大手門北方塀

大手門北方塀は、北に伸び多聞櫓に接している。長さは21.5mだ。南側1/3は大手口雁木坂に接し巨石が使われ、残り2/3は西外堀に面した高石垣となっている。笠石銃眼は7門、土塀の鉄砲狭間は3門設けられている。写真左手の石垣は大手門の武者隠で高さは約3mある。

大坂城大手門北方塀
大手門北方塀。写真右手奥は渡櫓(多聞櫓)。

大手門脇の笠石銃眼
城内側から見る笠石銃眼。笠石に乗る横材は塀の土台で北方塀のみおそらくは創建時のもの。城外側は漆喰で塗り込められている。

北方塀は昭和41年(1966)の保存修理時には、北方塀は全解体され、本柱を保存されていた古材を再利用し幕末の修復時の姿に修築された。なお、柱番付は、保存された古材から推測するに門を起点に一、ニ、三といった具合に、櫓や門といった建物を基点に打たれていたと推測されている。大手門北方塀は国の重要文化財に指定されている。

大坂城大手門図解

枡形虎口南側の多聞櫓跡と土塀

大手枡形の南側にもかつて多聞櫓があり、明治期に焼失している。笠石や一部の雁木を見ると火を受けているのが分かる。土台上にその多聞櫓の礎石が見られる。南側の土塀は旧陸軍の手によるコンクリート造のものとなる。
大阪城大手虎口の多聞櫓跡礎石
写真は多聞櫓跡。土塀下の石、焼痕のある笠石銃眼は続櫓に連結する写真奥のみで、手前側は後の補修を受けて統一されていない形となっている。また、屋根や壁面は大正12年(1923)頃と昭和28年(1953)と2回修復されたものと見られている。

補修された石垣(大手門南側)
補修された石垣には、矢穴のあるものも見られる。

大手口の土橋上の見どころと合わせて見ておく

さて、余談ながら、大手門の城外側、大手土橋の雁木に大名の刻印が西側にあるので合わせて見ておくと良い。

大阪城大手土橋の土佐山内家の家紋の石垣刻印
土佐山内家の家紋「三ツ柏(みつがしわ)」の石垣刻印だ。余談ながら、三菱ロゴマークは、岩崎弥太郎の家紋「三階菱」と藩主山内家の家紋「三ツ柏」を合体させて誕生している。この三方に広がる家紋を見る度に三菱ロゴマークを思い出す。
『大坂築城丁場割図』には「大手土橋申年石垣ヲ辰年壊覚」とあり、また同所に「11間松平土佐守」と記載がある。これはもとは申年(徳川大坂城の石垣第一期工事の元和6年(1620)の干支)に、10間を深尾山城守が石垣を築き、辰年(寛永5年(1628)の干支)に石垣が壊れ、11間を松平土佐守が担当して築き直したということになる。松平土佐守とは、土佐藩二代藩主、山内忠義で慶長15年(1610)に松平姓を下賜されている。1628年は徳川大坂城の石垣第三期工事(最終段階)が始まった年で南外堀が築かれた年となる(大坂築城丁場割図については北村美穂さんにご教示いただいた)。
大坂築城丁場割図大手門付近
「大坂築城丁場割図」(中之島図書館蔵)より転載

大阪城大手土橋の雁木
雁木には線刻にも見える少し凹ましたラインが見受けられる箇所があるが、これは下段に用いる石材を上に積んでしまったもので本来はこの上にまた雁木を積む、そのための噛ませるラインとなる。また、写真右手の石材には下面に矢穴痕が見られる。

大阪城大手門土橋の焼けた痕跡
大手土橋上には、火を受けた石があるが、これは土橋左手、大手門脇にあった小屋が焼けた痕跡かと思われる。

大阪城大手土橋雁木に見られる刻印
そのほか、大手土橋雁木上にはいくつかの刻印が見られる。

(文・写真=岡 泰行)

『重要文化財 大手門』現地案内板の記載内容

城の正面を大手(追って【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんかわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている(歴史街道)。

参考文献:
『重要文化財 大阪城 大手門・同南方塀・同北方塀・多聞櫓北方塀・多聞櫓・金明水井戸屋形・桜門・同左右塀 工事報告書』(大阪市)

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