名護屋城は、文禄・慶長の役の出兵拠点として天正19年(1591)に豊臣秀吉が築いた巨大城郭だ。玄界灘に向かって突き出す丘陵に広大な縄張が展開し、石垣や天守台、山里丸などに往時の面影が残る。現在は発掘調査と整備が進み、桃山期最大級の城跡を歩いて体感できる。このページでは名護屋城の歴史と構造、見どころを豊富な写真とともに紹介する。

写真:岡 泰行(城郭カメラマン)

肥前名護屋城の歴史・見どころ

名護屋城は、豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際して築いた城で、朝鮮半島への出兵拠点として整えられた。築城は天正19年(1591)10月に始まり、加藤清正・小西行長・黒田長政らが縄張りに関わり、九州諸侯の手伝い普請(割普請)によって短期間のうちに主要部が築かれた。文禄元年(1592)春には城と城下が一応の体裁を整え、同年4月25日、秀吉が名護屋へ着陣した。

名護屋は対馬を経て朝鮮半島に渡るうえで地理的条件に優れ、湾口に加部島をもつ名護屋浦は天然の良港だった。このため軍船や商船の出入りが可能となり、城は海と直結した軍事拠点として機能した。城の周辺には150以上におよぶ諸大名の陣所が築かれ、全国から20万人を超える人々が集まり、一帯は急速に巨大な軍事都市へと変貌した。

しかし戦局は次第に行き詰まり、講和交渉の決裂を経て慶長2年(1597)には再び出兵が行われた。戦いは慶長3年(1598)8月、秀吉の死によって終結へ向かい、諸将に帰国命令が下された。名護屋城はその役割を急速に失い、城下の繁栄も終焉を迎えた。

関ヶ原の戦い後、寺沢広高が唐津城を築く際に名護屋城の用材を転用したとされ、慶長年間のうちに廃城となったとみられる。さらに寛永14年(1637)の島原の乱の際、キリシタン勢力の立て籠もりを恐れた幕府によって石垣が破壊されたという伝承も残る。短期間の栄華を経て歴史の舞台から退いた名護屋城は、現在、広大な石垣群が往時の姿を伝えている。

名護屋城の特徴と構造

名護屋城は波戸岬の付け根にあたる標高約90mの丘陵に築かれた平山城で、東西に名護屋浦と申浦の入江を控える海城的性格をもつ。城域は広大で、本丸を中心に二ノ丸・三ノ丸・弾正丸・遊撃丸・東出丸・山里丸・台所丸・水手曲輪などを配した三段構えの構成となっている。

南の大手口から長い坂道を登ると東出丸を経て三ノ丸に至り、ここから本丸・二ノ丸・水手曲輪・山里丸へと分岐する動線が形成されている。三ノ丸は城内交通の要となる郭であり、複雑な縄張りが広大な城域を機能的に結びつけていた。また各郭の入口に左折を原則とする「左縄」の構えが多くみられる点も特徴の一つといえる。

水に乏しい土地であったため、水手曲輪は城の存立に関わる重要な区画だった。山里丸は日常生活の場として利用され、茶や能などが催された記録も残る。現在は建物を失ったものの、広範囲に残る石垣や天守台、郭の地形が桃山期巨大城郭の実像をよく伝えている。

肥前名護屋城・天守台石碑
天守台石碑
肥前名護屋城・本丸大手口
本丸大手口
肥前名護屋城・山里口
山里口

名護屋城の整備状況

名護屋城跡では発掘調査と保存整備が継続して進められている。本丸では平成20年度から御殿跡の平面表示が段階的に整備され、水手通路に面した本丸北裾の石垣では修理と復元が行われている。山里丸では草庵茶室跡の発掘成果を踏まえた整備が進められ、天守台でも礎石や穴蔵の確認結果をもとに基礎部分の復元が行われた。三ノ丸南東隅櫓台では新旧の石段を比較できる整備が実施され、井戸跡の遺構表示も進められている。遺構を保存しながら往時の空間構成を理解できる城跡として、現在も段階的な整備が続いている。

  • 『日本城郭大系17』(新人物往来社)
  • Webサイト「佐賀県立名護屋城博物館」

肥前名護屋城の撮影スポット・絶景ポイント

天守台の南側脇から、遊撃丸跡をメインに海を撮影すると良し。雨上がりの晴れの日が視界良好。季節はいつでも。

肥前名護屋城の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、肥前名護屋城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

肥前名護屋城周辺の観光スポット・史跡めぐり

諸大名の陣跡

諸大名の陣跡を訪れると良い。整備状況から見やすい陣屋は、島津義弘陣跡、上杉景勝陣跡、加藤清正陣跡、黒田長政陣跡、伊達政宗陣跡、堀秀治陣跡、木下延俊陣跡、加藤嘉明陣跡、生駒親正陣跡、九鬼嘉隆陣跡、豊臣秀保陣跡、富田信則陣跡、徳川家康陣跡、前田利家陣跡などがある。陣跡にあまり興味がない人も、博物館のすぐ裏手にある「木下延俊陣跡」に足を運んでおくと良い。

名護屋城から広がる城めぐり

豊臣政権の中枢の城

豊臣政権の政治と軍事の中心となった城をたどるなら、この城は欠かせない。

佐賀県の名城

佐賀県に残る多彩な名城からは、地域の歴史の広がりが見えてくる。

肥前名護屋城周辺グルメ・名物料理

呼子のイカずばり「呼子のイカ」。イカの刺身、天ぷらなどのコースなどたまらなくうまい。名護屋大橋を西へ戻ってすぐ北側の佐賀県唐津市呼子町へどうぞ。イカ一杯をそのまま刺身でいただき、ゲソは天ぷらでどうぞ。余談だが、日野江城近郊の「喜作」もこのあたりからイカを取り寄せているとか。栄螺(さざえ)は玄海国定公園に屋台が並ぶ。3~5月が最も美味。さざえはもちろん天然物。

肥前名護屋城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931 [MAP] 県別一覧[佐賀県]

電話0955-82-4905(佐賀県立 名護屋城博物館)・0955-51-1052(肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会)

アクセス

鉄道利用

JR唐津線、唐津駅下車、タクシー30分。バスは唐津市大手口バスセンターから「昭和バス波戸岬」行き、「護屋城博物館入口」降車、徒歩5分。

マイカー利用

長崎自動車道多久ICから車で60分。

肥前名護屋城周辺ホテル・宿泊情報

「大望閣」1泊2食でイカをメインにしたプランもある。食事のみも可。玄海国定公園にあり。東松浦郡鎮西町大字名護屋 名護屋大橋高台。

肥前名護屋城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

肥前名護屋城は、豊臣秀吉の大陸への進攻のため築かれた前線基地。黒田官兵衛の縄張りとされ、周囲には各大名の陣屋跡が数多く点在している。秀吉の死後に廃城となり、石垣の隅部など要所が破壊された状態で現在まで残る。規模もさることながら、随所に残された石垣や曲輪が美しい。有料の公園だが、その整備に非常に好感が持てる。

名護屋城内は、写真入りの案内板が各所にあり、発掘に基づく解説で現地で理解を深めることができる。また、隣接の佐賀県立名護屋城博物館にて、往時の姿を城郭模型で見ることができる。

肥前名護屋城:城ファンの知見と記録

肥前名護屋城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全4件)。

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    唐津城まで来ながら名護屋城を訪れない手はないっ!唐津から国道204号線を車で30分ほど走り、名護屋大橋を渡ってしばらく行くと忽然と現れる壮大な石垣。そう、これが文録・慶長の役で秀吉の朝鮮出兵での侵略基地ともいうべき肥前名護屋城址です。天主台をはじめ、大手口、三の丸、周囲には各大名家の陣屋址があって見所には事欠きませんよ!とにかく時間と体力の許す限り周辺も探索してみて。

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    佐賀県立名護屋城博物館で販売している書籍と土産物屋に置いている書籍が全く違うものを置いている。

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    大名の各陣跡に夏の間行くのは、ほぼ不可能です(草がボーボー)。

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    かつての繁栄がまったくみられないところに、不自然な巨大な石垣群が見られる。天守閣あとからの海への眺めは最高(黒沢沢映画「乱」の撮影に使われたらしい)。

城の情報

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