2019.05.25   /   城の撮影方法   /  

ふと道すがら、山陽と山陰の話を思い出した。その昔、山口に住んでいたHさん曰わく、山陽で仕事してそのまま山陰に足を運ぶと、天気がどんより変わったらしい。山陽で晴れていても山陰は曇りといった具合で、「山陽」「山陰」とは、誰がつけたかよく言ったものだと感心していた。

「松江の七不思議」のひとつに子育て飴という話がある。松江城下で夜な夜な、飴屋の戸を叩き、一文銭を出して飴を買う女がいた。6日間通い(ちょうど六文銭)、7日目に自分の着物を差し出して飴を買ったそうだ。不審に思った店主が女のあとをつけてみると墓場で消え、赤ん坊の泣き声が聞こえた。墓を掘ると女の遺骸が生まれて間もない赤児を抱えていた。その話が大雄寺(だいおうじ)にある。旅の同行者、Sさんの話によるとこういった怪談が寺まで限定して伝わっているケースは珍しい。寺の機能というのは、戸籍の登録所であり病院であり学校でありと、町をまとめ、教育をも担う機能を持っていたから、子育て飴の話を通して母親の愛情など説明していたに違いない。同様の話は各地にあって、関西圏ではその飴屋が現存していて教育でなく、店の宣伝に使っている。

尼子の城、月山富田城上月城に、城の名前がかっこいい。さておき、鹿野(鳥取県)にある山中鹿之助の墓を訪れた。山中鹿之助の墓は、備中松山の胴墓(岡山県)、鞆の浦の首塚(広島県)と、ここ鹿野の幸盛寺、また京都にいくつか供養墓がある。鹿野城下は風情ある町並みでその中心に位置する幸盛寺にある。墓の両脇の石柱を見ると、左側には「男爵鴻池家」(始祖は山中鹿之助の子)、右側には「伯爵亀井家」と書かれている(鹿野藩初代藩主、亀井茲矩が高梁から遺骨を移した)。両家とも山中鹿之助に深く関係しているそうだ。

鹿野(鳥取県)にある山中鹿之助の墓
鹿野(鳥取県)にある山中鹿之助の墓

月山富田城の山中御殿と七曲がりの登城路
月山富田城、山中御殿に七曲がりの登城路添え。大内、毛利に山中御殿まで攻められた尼子側の目線で

宍道湖の夕日
宍道湖の夕日

(文・写真=岡 泰行)

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